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佐野ぬい ―前編―
ライブラリは、アートの様々な分野で第一線に立ち、すぐれた業績を残されている同窓生の方々をご紹介するコーナーです。
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| ライブラリ第1回目は、洋画家として活躍されている佐野ぬいさんです。 佐野さんは現在、同窓会会長として同窓会の新しい展開と発展に力を尽くされています。 |
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佐野ぬいさん
作品
![]() 青と黒のドキュメント1 2001年 油彩
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佐野ぬい(洋画家) ― 前編 ―
佐野さんはどのようにして絵画に目覚め、女子美と出会ったのか。前編では、佐野さんの幼少時から学生時代までを追っていきます。
色彩の発想の原点は幼少期の精神風土から 佐野さんは青森県弘前市の出身で、生家は「ラグノオ」という名前の大きな菓子店です。「ラグノオ」とはエドモン・ロスタンの戯曲「シラノ・ド・ベルジュラック」に登場する店主の名前です。お父様は仕事のかたわら詩を書き、同人誌「鴉」を出版されるほどの文学好きで、幼い佐野さんに近代フランス詩を暗誦させたりもしたそうです。 そんな「ラグノオ」のクラシック音楽の流れる喫茶室にはモディリアーニのデッサンの複製画が掛かり、作家や画家が多く集まる場所ともなっていました。「ラグノオ」の厨房でホイッパーから搾り出されるクリームの白や洋酒の瓶の青、季節ごとの和菓子のナチュラルな色合いやパステル調のパンや洋菓子といった楽しい色彩に囲まれた日常生活のほか、お父様の出版されていた同人誌の表紙のブルー、そして故郷津軽の風物などが、色彩に影響を与えていたようです。 「冬が長い土地だけに、吹雪の白が子ども時代の記憶の色。雪の平野を爆走してくる蒸気機関車の黒と白のコントラストが強烈に印象に残っています」 「早春になって雪が溶け、ふっと現れる青い空、林檎畑に、たわわに実をつける林檎の赤、ねぷた祭りの強烈で地方色豊かな赤」 佐野さんは後に「美しさに感動するとき、それは色彩となって心に残る」とおっしゃっています。幼少時、心に残った色彩の数々、さまざまなイメージは深層に深く刻まれ、醸成されてキャンバスの上に躍り出てきているのかもしれません。 絵をはじめたきっかけは 佐野さんの子ども時代には、絵にまつわる重要なエピソードがあります。ご自身が「逆転の絵」と呼ばれるエピソードで、「あの『逆転の絵』の出来事がなかったら、私は今のように、ずっと絵を描いていなかったかもしれない」と言うほど印象的な、子どもにとっては一つの事件ともいえるような出来事でした。 そのエピソードとは――小学校の図画の時間、クラス全員で写生してきた絵で、どの絵が一番いいか皆で言い合うことになったときのこと。最初に人気が集まった絵を自分のものだと思い込んだ佐野さんが自分の絵をいいと言うことはできず、隣にあった絵のほうがいいと言ったところ、クラス全員が同調、その絵が一番いいということになりました。しかし、実はそれが自分の絵だったのです。選ぶときには名前が伏せてあり、よく似たその絵をほかの人の絵だと思ってしまったのでした。間違えてしまうほど似た絵だったこと、また、自分の絵をいいと言ったことで感じた先生や友だちの強い視線。それ以来、佐野さんは皆とは違う絵を描くよう、心がけることにしたのでした。 「逆転の絵」のエピソード以来、皆とは違う絵を描くようになった佐野さんの様子を見て、事情を理解していない担任の先生はご両親に「このごろへんな絵を描く」と告げ、驚いたご両親は絵を習いに行かせることに決めたそうです。そして、それが佐野さんと絵との本格的な出会いになったのです。 巴里への憧れ――女子美との出会い 終戦後、ようやく出回り始めた油絵の具をお父様の絵具箱に入れてアトリエに通い始め、外国に行ったような気分を味わった佐野さんの心をさらに動かしたのは、その頃怒濤のごとく日本へ入ってきたアメリカやヨーロッパの映画でした。 菓子店であった生家は繁華街にあったため、映画館はごく近所という好条件。来た映画はすべて観るという熱の入りようで、特に30年代のフランス映画は佐野さんの心を強くとらえました。ご自身が「大いなる幻影」とおっしゃる30年代パリのモノクロームの映像。「巴里の屋根の下」「巴里祭」「北ホテル」などの映画はいつしか佐野さんの気持ちをパリへと向かわせ、パリに行きたいという熱烈な気持ちを抱かせるに至ったのです。 同時期にパリを描いた画家、佐伯佑三の画集を見て、「巴里のあの石造りの建物を描いてみたい」と思いを募らせても、当時は今のように簡単にフランスへ行ける時代ではありませんでした。そこで、「ふらんすへ行きたしと思へども、ふらんすはあまりに遠し」という萩原朔太郎の詩に胸を詰まらせていた女学生時代、「津軽よりも東京のほうがパリに近い。まず東京に行こう」と決意されたそうです。さらに、先に女子美に入学しておられた同郷の女優である奈良岡朋子さんから女子美は楽しくてよい学校だと聞き、女子美で洋画を学ぶことに決めました。パリへの強烈な憧れと奈良岡さんのアドバイスが、佐野さんと女子美を結び付けたのでした。 在学中は、中山巍、森田元子、桜井悦といった画家たちの教えを受け、画学生としての生活が始まりました。1951年女子美1年生のとき、マチス展が東京で開催されました。鮮やかな色彩の対比とフランスのエスプリ、マチスの作品は、佐野さんに大きな影響を与えました。 (次号へ続く) 参考文献 1995,佐野ぬい 青の構図 美術出版社 1997,婦人之友12月号 婦人之友社 2001,婦人之友10月号 婦人之友社 |
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略歴 ―Profile of Nui Sano―
1932年(昭和7年) 1955年(昭和30年) 1957年(昭和32年) 1961年(昭和36年) 1965年(昭和40年) 1969年(昭和44年) 1972年(昭和47年) 1976年(昭和51年) 1984年(昭和59年) 1986年(昭和61年) 1987年(昭和62年) 1988年(昭和63年) 1989年(昭和64年) 1991年(平成3年) 1993年(平成5年) 1994年(平成6年) 1995年(平成7年) 1996年(平成8年) 2000年(平成12年) 2001年(平成13年)
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