佐藤和子さん
本年度の同窓会副会長でもある佐藤さんは長くイタリアのデザイン界で活躍され、日本とイタリアを繋ぐデザインジャーナリストとして活動されています。
1961年3月
女子美術大学芸術学部図案科卒業
1961年4月
東京芸術大学美術学部図案専攻科入学(62年3月退学)
1961年5月
イタリア政府留学試験合格[文部省]
1961年10月
ミラノ・ブレラ美術大学装飾科入学(63年6月修了)
1963年
ボネット・インダストリアル・デザイン・スタジオ(ミラノ)勤務
1970年
建築デザイン共同事務所(ミラノ)設立
1973年
ティチーノ川周辺土地開発コンペ2等賞
1980年
建築デザインアート誌「DOMUS」コラボレター(〜'86)となる
1980年
展覧会「FORUM DESIGN」オーストリア・リンツ市主催テーマ館<儀式のデザイン>の指名作家
1980年
展覧会「柳宋理のデザイン:1950−80」ミラノ近代美術館にて開催。ミラノ展総責任者
1981年
講演:「70年代のイタリアの社会とデザインの変遷」イタリア文化会館(東京)にて
1983年
展覧会「目で食べる日本料理」チェントロドムス(ミラノ)にてパオラ・ナヴォーネとの共催
1983年
日本デザイン学会員(〜'93)
1983年
展覧会「ミラノデザイン:コンパッソ・ドーロ」天王寺美術館(大阪)にて開催。大阪・ミラノ姉妹都市文化交流展。展覧会総責任者
1983年
大阪市・ミラノ通商・デザイン・アドバイザー(〜'93)
1983年
コンパッソ・ドーロ賞<アルキミアのデザイン・リサーチ>グループ賞
1985年
日本意匠学会員(〜'90)
1986年
講演会「イタリアと日本のデザイン比較論」シカゴ州立大学芸術学部
1986年
展覧会「ジオ・ポンティ」有楽町アート・フォーラムにて開催。展覧会キュレーター
1986年
インテリア誌「INTERNI」誌日本特派員(〜'89)
1987年
イタリア国立ジャーナリスト協会会員になる
1988年
「アーバン・ナウ」コラム連載(〜'95)日本経済新聞紙上
1989年
オフィス家具「UFFICIOSTILE」誌日本特派員(〜'92)
1995年
「イタリアデザイン・セミナー」を実施。イタリア文化会館
1995年
「DOMUS」日本特派員
1996年
講演「時に生きるイタリアデザイン」富山県デザインセンター
2000年
金沢美術工芸大学講師
2000年
リビングデザインセンター・オゾン・モービレモービリ監修者
2001年
展覧会"日本におけるイタリア2001"の「日本とイタリア:生活のデザイン」横浜展・神戸展の日本監修者
2002年
高岡クラフトコンペ審査員
主な著作
1970年
翻訳:建築誌「SD」誌。<光の思想>エットレ・ソットサス
1979年
特集:ジャパン・インテリア・デザイン誌<スタジオ・アルキミア>
1981年
共著:「FORUM DESIGN」・リンツ工業芸術ゲュスタルトウンク大學出版(独語)
1982年
論文:「ポストモダンの源流をさぐる」AXIS誌 vol.3
1983年
論文:「イタリアのインダストリアル・デザイン教育についての考察」
デザイン学研究―No.41,日本デザイン学会
1984年
インタビュー記事:「倉俣史朗」DOMUS(伊・英語)
1985年
編著:「アルキミア:終わりなきイタリアデザイン」六耀社(東京)日英語版
1986年
共著:「ジオ・ポンティ」鹿島出版会(東京)(日英版)
1988年
編著「Alchimia : Contemporary Italian Design」TACO社(ベルリン)英独版
1988年
共著:「マトリクス」No.6,<イタリア30年代のデザイン>Reseach Institute of Arts,東海大學
1991年
共著:「Storia del Disegno Industriale」Electa社(ミラノ)
1919−1990:il Dominio del design _Giappone : dall'artigianato anonimo al modello occidentale- (伊語){428頁大型版}―「インダストリアル・デザインの歴史」エレクタ社(ミラノ)
1919-1990:デザインの支配―日本:無名の職人工芸から西洋のモデルへー
1992年
同書の英語版出版。エレクタ社
1995年
著書:「時に生きるイタリアデザイン」三田出版会(東京)
1996年
論文:「戦後イタリアのデザイン」日伊文化研究誌・日伊協会出版
1996年
論文:「イタリアデザイン」イタリア研究会報告書、イタリア研究会
1997年
HP:「佐藤和子の見たイタリアデザイン」1〜9回。日本オリベッティ広報部<インテルバッロ>
1997年
特集:「L'abito della liberta'-Issey Miyake」DOMUS 「自由なる服:三宅一生」ドムス誌(伊英語)
1998年
共著:「ISSEY MIYAKE MAKING THINGS」Foundation Cartier pour l'arte contemporain (仏語)。1999年(英語版)、2000年(日本語版)
1999年
共著:「イタリアの経済」早稲田大学出版部
2001年
著書:「時を生きるイタリアデザイン」改定版、TBSブリタニカ
2001年
共著「イタリアと日本:生活のデザイン展」日本経済新聞社
2003年
論文:「デザイン:ジオ・ポンティ」日伊文化研究誌<20世紀イタリア人列伝> 日伊協会発行(予定)
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佐藤和子(デザイナー/デザインジャーナリスト) ― 前編 ―
佐藤さんとイタリアデザインとの出会いや、イタリアへ渡られてからのご活動などを、ご自身のお言葉で語っていただきました。
1.世界デザイン会議(東京・1960)からイタリア留学へ
私は1961年、女子美を卒業した年の秋に、イタリアへ留学しました。今から41年前のことです。神戸のメリケン波止場から船で出航し、イタリアのジェノヴァ港まで33日かかりました。
何故イタリアに留学したのか、今思うとそれには二つの理由があったと思います。1つはその前年、日本で初めて「世界デザイン会議(World Design Conference)」が 東京で開かれ、私たちデザイン学生が1つにまとまって、その会議に学生部会として参加したことです。いろいろな国から来た著名なデザイナーたちと交流ができたこと は、私たちに広い世界への目を開かせてくれました。その時、学生が企画した講演会でイタリアのデザイナー、ブルーノ・ムナーリ氏は、私たちに、変化していく素晴らし い形体と色彩をスライドで見せてくれました。あの変革する光と色は今でも強く私の目の奥に焼き付いています。
もう1つは、女子美入学以来ずっと一貫して指導していただいた松川丞二先生の影響です。物事を深く見つめ追求していけば「何かが見つかる」という考え方を、4年間とことん叩きこまれました。その頃は「somethingがある」とは、何を言われているのか皆目検討もつかず、デザインの考え方が一般の人とは異なる先生だと思っていました。私がイタリアへ留学した背景には、「何か」素晴らしいものを秘めたイタリアデザインを探るためであり、その背景には松川先生のあの考え方の影響があったのだと思います。
2.デザインはリサーチと技術とアートの世界だ
私の実質的なデザイン活動は、ミラノのロドルフォ・ボネット・インダストリアル・デザイン・スタジオに入所した時からです。
私の最初の仕事は、CGE社の冷蔵庫でした。当時のイタリアは自動車と家電が国際的にも大きく伸びている時代でした。当時、ボネット・デザイン・スタジオでも、自動車とそれにかかわる機器のデザインやテレビやラジオなどが主な仕事でした。
所員は私を含めて3人。サンドロはドラフトマン出身のイタリア人、ウルム造形大出身のワルテルはドイツ系スイス人でした。私たち3人は同じ世代で、ボネット氏も32歳という若いグループでした。
この時期、ボネット氏が、ドイツのウルム造形大學で教鞭をとっていたこともあり、スタジオはバウハウスの流れを汲む合理主義的デザインを目指していました。デザ インアプローチはまず全員4人でディスカッションする所から始まり、各担当が決められていくのですが、少数なのでクライアントとの話し合いから図面仕上げまで、皆で何もかもやりました。図面の描き方などはイタリアと日本では異なっていましたし、イタリアには模型作りにもすごいアーティストが存在していました。その人の手に 掛かると、図面だけのイメージが、見る見るうちに素晴らしい立体となり、本物の製品以上に光輝く芸術作品になってしまうのです。
私はイタリアデザインが、本当は 奥深いリサーチと、素晴らしい技術力(それは伝統工芸技術とハイテクの両方ですが)の上に成り立っているのだということを、この時期から肌で感じながらデザインの 世界に入っていきました。
3.機能美を追求するインダストリアル・デザイン
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そのスタジオで、私は主に家電製品の冷蔵庫やテレビ、小型ラジオ、ポータブルラジオのデザインをしました。オリベッティの
複写機をデザインした時は、この製品が企業秘密の技術を内蔵しているのだと感じました。冷蔵庫の色彩はいつも私の担当でしたが、あるホワイトピンクの色合いがクラ
イアントからとても喜ばれ、その色に決定したのは良かったのですが、日が経過するに従い赤色が濃くなってしまったという失敗もありました。またナイロンの靴下製造
機械のデザインは、どうあがいても形がまとまらずとても苦労しました。
その頃はイタリア経済も上昇中で、ミラノには小さいデザインスタジオが増えていった時代でした。他の建築事務所から、もう少し賃金を上げるから来ないかという誘
いもありました。イタリアはデザイン専門学校が少なく、外国人のデザイナーをどこの事務所も欲しがっていた時代だったのです。私は、ボネット氏の「メカニズムをとことん分ってから始める発想力」によく驚かされました。そして、私たち若者の意見を、例えそれが馬鹿らしく見える小さな事柄
でも、熱心に耳を傾けてくれた姿勢を今でもはっきりと覚えています。あの謙虚な態度が、その後イタリアデザイン界を代表する、著名なデザイナーになった源泉でもあったのではと思います。機能的な使い良さを、何気ない美しいラインで仕上げていく「イタリアの機能美」は、人間の感性をさわやかに吹き抜けていく、初夏のそよ風のようだと思いました。
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4.仲間と建築デザイン事務所設立へ
私が若い建築家の友人4人と共同で、ミラノに建築デザイン事務所を設立したのは1970年の暮れでした。
60年代前半の、あのイタリア経済の活気は一体どこに消えてしまったのだろうという位、この頃から経済は下降現象をたどり、若者の失業率が増えていました。特に 1968〜69年は<社会改革運動>のデモが頻発し、イタリアの社会もすさんできていました。
私たち5人は各個室を持ち、それぞれが独立した事務所のボスでした。受ける仕事の内容と予算により、2人、3人と組んで仕事をすることにしました。例えば、国 際見本市に製品を展示する会社からの展示ディスプレイの仕事は支払いも少ないので、私一人で行い、ティチーノ川周辺の土地開発プロジェクトの場合は、2人の建築家が担当、私は遊園地プランに参加するという具合でした。電話はたった1本で、受取る人が秘書がわりになるという事務所でした。
5.インテリア・デザイナーからデザイン・ジャーナリストへ
1973年に行った大型インテリアデザインの設計は、私ともう一人の女性建築家と組んで行った仕事でした。この家はミラノのフルワ通りに建つリッチなマンションで、その最上階と屋上部屋との2フロアを全面改築し、新しく公的な要素と私的な要素を取り入れた、社長宅(M商社)を設計することでした。
新しく階段・ドア・壁を設計して、特に選び抜かれた素晴らしい家具を設置しましたが、特注家具も沢山デザインすることができ、デザイナーとして楽しい仕事でし た。
図面を片手に、屈強なシシリア人の大工さんたちを指導していくには、相当な迫力と決断力が必要でした。「女」だからという面が少しでも見えたら、もう仕事にはならないので、現場ではキリリとしたズボン姿で、作業を指示しながら建設を進めました。
外国で女が専門の仕事を進めていく場合、まず大事なことは、仕事に対する誇りとその責任ポストを相手に理解して貰うことから始めねばなりませんでした。
しかし、70年に仲間と設立した建築デザイン事務所は、不景気のあおりを受けて、75年、バラバラに消滅してしまいました。
でも、事務所閉鎖の前後から、翻訳やデザイン取材が多く舞い込むようになっていたので、以後、私はデザイン・リサーチを基礎にした、ジャーナリストへの道を歩み始めることにしたのです。
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(次号へ続く)
今回のライブラリは10月5日に行われた女子美術大学同窓会主催講演会
「イタリアのアヴァンギャルド・デザインとポスト・モダン人生」を元に構成されています。
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