当時の物価>>>
同窓会の動き>>>
同窓会が百周年記念誌作成に関して『TAYORI』を通して呼びかけたところ、1904年(明治37)裁縫科撰科裁縫科卒の渋谷かつさんのご遺族から、赤沼・和田両先生を囲んだ卒業記念写真が送られてきた。(中央、左から3人目が和田、4人目が赤沼先生)
左上:藤田文蔵先生
右上:横井玉子先生
左下:佐藤志津先生
私立女子美術学校は、藤田文蔵、横井玉子、谷口鉄太郎、田中晋等により提出された設立願いが、1900年(明治33)10月30日に認可され、翌1901年4月本郷弓町に藤田文蔵校長で開校しました。
本科普通科・高等科、撰科普通科・高等科の4学科で、それぞれ日本画、西洋画、彫塑、刺繍、蒔絵、編物、造花、裁縫の8学科が設置されました。
その建学の精神は、
1)芸術による女性の自立、
2)女性の社会的地位向上、
3)女子芸術教育者の育成
でした。
女子の芸術教育を理想に掲げての学校運営は、経営的には厳しいものがあり、藤田・横井両先生は、経済的援助を求め奔走する日々が続きました。また学校経営の対立から、発起人が辞任、経営危機に追い込まれました。
このとき佐倉順天堂堂主・佐藤進男爵夫人佐藤志津先生が請われて女子美の経営に参画し、経営の危機は回避されました。
しかし、胃ガンに冒されていた横井玉子先生の病状が悪化し、1902年12月31日、志なかばで世を去られました。(『女子美術大学80年史』による)
1904年(明治37)2月、佐藤志津先生が第2代校長に就任し、学校は順調に歩みをはじめましたが、1908年(明治41)10月、弓町校舎は火災で焼失してしまいました。この火災を機に菊坂に新天地を求めて校舎の建築にとりかかり、1909年には新校舎へ全面移転が完了しました。1910年(明治43)新校舎落成の後「菊坂の女子美」の愛称が誕生しました。
当時の教授陣には、藤田文蔵(彫刻)、紀淑雄(日本美術史)、岩村透(美学・西洋美術史)、島田友春・河鍋暁翆(日本画)、磯野吉雄(西洋画)、久米桂一郎(芸用解剖学)、谷紀三郎(外国語)、尺秀三郎(教育)、谷江風(国語)先生などが名を連ねていました。
上:1909年(明治42)菊坂校舎 下:1905年(明治38)頃の弓町校舎
その頃の東京は電灯も電車もない時代ですから、上京し上野駅より人力車に揺られ弓町の学校へ着きました。寄宿舎は学校に近い田中晋先生(創立発起人の一人)宅の二階で寄宿生7名でのスタートでした。ランプの掃除に一苦労で、時にはホヤを壊したり、芯の切り方が悪く室内を燻らせることもありました。1902年(明治35)には寄宿生が増えたこともあり、校舎が増築されたのを機に旧校舎を改築して寄宿舎にしました。舎監には横井玉子先生がなられました。(明治37年日本画卒、清水たつさんの思い出より)
東京で最もハイカラな学生として、自他共に許す女子美生のいでたちは、当時流行の髪形のマーガレットにリボンを大きく結び、胸に校章を付け、優美な長袖に紫紺の袴に靴を履き、颯爽として通う姿は道行くひとを振り返らさせずにはおきませんでした。
女性が絵を描くことが特別な時代でしたから、油絵を描くことをペンキ屋になるのかと反対した親や親類を説得して入学することなど珍しいことではありませんでした。絵の具や画材類はまだ日本には無くすべてはフランス製でした。スケッチに出かけて困ることは、「おーい女が絵を描いているぞ」と物めずらしそうに、ヤジ馬に囲まれ、何も見えなくなったり、ぞろぞろついてこられることでした。(明治36年洋画卒、足助恒さんの思い出より)
パリ万博に際して、日本出品陳列監守として派遣された伊澤峯子先生は、博覧会終了後もパリに留まり洋裁を学ばれました。帰国後、わが校に招かれ洋服裁縫を担当しました。
いち早く洋裁を取り入れた女子美には外国製のミシンがありましたが、アイロンはまだ電気の無い時代でしたから木炭アイロンでした。(横井玉子先生を知る数少ない生徒の一人、関千代さんの思い出より)
同窓会の動き
1902年(明治35) 3月、第一回卒業式が行われた。菊地文部大臣の臨席を得て、14名の卒業生を送りだした。これ以後卒業式は1908年(明治41)年までは年に2回、1909年からは年1回行われ、開校より1911年までの明治年間の卒業生は1,237名にのぼる。
学校では早い時期から校友会を作り、生徒、卒業生、教職員間の親睦を図り、時には同窓会的な活動もしていた。これを同窓会とみる意見もあるが、まだ正式に組織を持った会の形には成っていない。
この写真は渋谷操さん(旧姓岡本操子)が日本画の恩師、河鍋暁翆先生へ渡米に際して送ったものである。 (河鍋暁斎記念美術館蔵)
佐藤志津先生の優しさを物語るエピソードを、当時の卒業生が書き残しています。
「…私は明治37年3月、日本画普通科を卒業すると、その10月渡米することになり、時未だ日露戦争も終わらぬ旅順陥落前で、敵艦もしばしば出没し太平洋の波もいと穏やかならぬ時でもあり、静子先生はあたかも我が娘のようにご心配下され、横浜の有力者のご親戚を煩わして船中の事まで一切ご 配慮いただき、若き身の一人旅も万事都合よく渡米できましたことなど、その一端を見ても師弟の間のご愛情の細やかさが伺われて、一生忘れることのできぬ感謝でいっぱいでございます」
(明治37年日本画卒、渋谷操さんの思い出より)
同窓会の動き
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1902年
(明治35) 3月、第一回卒業式が行われた。菊地文部大臣の臨席を得て、14名の卒業生を送りだした。これ以後卒業式は1908年(明治41)年までは年に2回、1909年からは年1回行われ、開校より1911年までの明治年間の卒業生は1,237名にのぼる。
学校では早い時期から校友会を作り、生徒、卒業生、教職員間の親睦を図り、時には同窓会的な活動もしていた。これを同窓会とみる意見もあるが、まだ正式に組織を持った会の形には成っていない。
当時の卒業証書
1905年の物価
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女子美術学校学費
入学金‥‥‥2円
授業料
本科‥‥‥年額24円 毎月分納可
(普通科・撰科も同様)
高等科‥‥‥年額30円 毎月分納可
(研究科も同じ)
寄宿寮費‥‥‥1ヵ月 7円
1907年(明治40)「東京名所絵図」より