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1912-1926
財団法人化など、
教室でのスナップ 1923年頃
教室でのスナップ 1923年頃(写真提供:松島和子さん)
佐藤 進先生
  佐藤達次郎先生  
佐藤 進先生
 
佐藤達次郎先生
 
 
将来の礎を固める
日本画・西洋画の生徒が主要な展覧会で入選するようになりました。また大正博覧会で生徒作品が賞状銀牌を受け、1915年(大正4)パナマ運河開通記念パナマ・パシフィック国際博覧会では、出品した刺繍・人形・造花・日本画などに対して賞状金牌を受けるなど、学校の教育成果が見られます。まさに「菊坂の女子美」時代となりました。
 1916年(大正5)付属高等女学校を開校し、翌年に佐藤高等女学校と改称しました。1917年本校の歴史上画期的な大改革といえる財団法人私立女子美術学校を設立。将来を見据え強固な基礎作りがなされました。

女子教育への理解の深まりと、第一次世界大戦後の好景気と相まって、入学希望者も増加し、学校経営に希望が持てるようになりました。この矢先、学校の育成に心血を注いでこられた佐藤志津先生が1919年(大正8)逝去され、後任としてその遺志を継いだ夫君の佐藤進先生が、初代理事長と第3代校長に就任しました。また同年、私立女子美術学校を女子美術学校と改称しました。佐藤進先生の作詩で校歌が作られたのもこの頃です。
 
1921年(大正10)佐藤進校長が高齢と多忙のなか逝去され、後任に子息の佐藤達次郎先生が第2代理事長と第4代校長に就任されました。1923年(大正12)の大震災は、未曾有の大災害でしたが被害は少なく、3週間後には授業を再開しました。

震災後、理事会で、日本画科・西洋画科を維持するのに、あまりにも費用がかかりすぎるということから、廃科を決議しますが、これを知った日本画・西洋画科関係者だけでなく正木直彦先生(東京美術学校長)や裁縫科の赤沼ヤエ先生を中心とする全校職員・生徒の廃止反対が功を奏し、存続することとなりました。


男まさりの女丈夫
日本美術史を受け持たれていた田中一松先生が、洋画担当の足助恒先生を評した記事に「岡田三郎助先生の高弟で男まさりの女丈夫だったが、清水たつ先生と生徒達をよく世話して殊に親切だった…」。

当時の先生のなかに、結城素明(日本画)、麻生秀二(書道)先生のお名前も見えます。


寄宿舎舎監室
寄宿舎舎監
 
寄宿舎生の夏休みの帰省 1915年
寄宿舎生の夏休みの帰省 1915年
軍隊波の厳しい規律
朝は5時起床、人員点呼、舎監の訓示、各部屋の掃除と舎監室、応接室、廊下、便所、庭の掃除。炊事は炊事婦二人がいて、生徒が毎日当番で準備と片付けを手伝いました。献立は室長が担当しました。夜は消燈が9時で、それ以上勉強したい人は一室に集まってしました。当時の寮生活はまさに軍隊生活のようでした。

土日以外の外出は、特別許可を得て、二人以上なら許されました。文通は文通者許可を得ている場合のみ受け取ることができました。当時は何処でもこのようであり、親たちも安心していたようです。

休み前の帰省の用意は行李に荷作りをして大八車で駅まで運びました。

関東大震災後は、災害に遭った人達が入寮したので、近くの民家、下宿、お寺等を一時的に利用しました。夢が実現した奈良・京都の旅

1924年(大正13)念願の奈良・京都の古美術見学旅行が実現しました。この旅行許可には時期尚早の意見がありましたが、理事で東大教授松本亦太郎先生の賛同と生徒の熱意が先生方を動かしました。現在の古美研はこれよりはじまりました。



パナマ運河開通記念
パナマ運河開通記念
パナマ・パシフィック国際博覧会での賞状
 
裁縫科教室
裁縫科教室
 
上記博覧会出品作(造花)
上記博覧会出品作(造花)
 
1917年頃のデッサン風景
1917年頃のデッサン風景
湯mr画実現した奈良・京都の旅
1924年(大正13)念願の奈良・京都の古美術見学旅行が実現しました。この旅行許可には時期尚早の意見がありましたが、理事で東大教授松本亦太郎先生の賛同と生徒の熱意が先生方を動かしました。現在の古美研はこれよりはじまりました。


メートル法による授業
尺度法がメートル法に変わると、1917年(大正6)服飾系の授業では、尺貫法を廃しメートル法を取り入れました。裁縫科を希望する生徒が次第に多くなり、教え方を統一する必要にせまられたため、赤沼ヤエ先生を中心に裁縫研究会が2年余をかけて教科書編集にあたりました。1924年(大正13)9月、念願の教科書『メートル法による高等裁縫書』全5巻が刊行されました。画期的なこの参考書は後に再版、改版され、他校の教科書としても多く用いられました。


長袖の和服に袴が主流
通学時の服装は、長袖の和服に袴をつけて編み上げの靴、という出で立ちでした。長い袖は絵を描く時には、邪魔になるので襷掛けをしていました。1923年(大正12)洋画卒の深沢紅子さんは、襷掛けも我慢ができず筒袖を着て学校へ行くので「大島の油売り」とあだ名を付けられたそうです。同級生の森田元子さんは、いつも洋服を着ていて、とてもハイカラだったと、深沢紅子さんは当時の思い出を記しています。

当時の授業で作った造花の材料や染料 当時の授業で作った造花の材料や染料
(写真上 提供:満田シンさんのご遺族)
レース編み生徒作品
(写真下 提供:賀谷喜美子さん)
レース編み生徒作品

1916〜1923年頃の物価
.
寄宿舎費‥‥‥ 1ヵ月 9円
仕送り‥‥‥20円
(女子美術学校学費 寄宿費を含む。大正5年頃 東京の学校の中では高い方)

コーヒー‥‥‥ 10銭
アイスクリーム‥‥‥20銭
映 画‥‥‥30銭
1921年(大正10)朝日新聞社『週間20世紀』より

山羊乳‥‥‥10銭
牛 乳‥‥‥8銭 
1921〜1923年(大正10〜12)頃、学校近くのミルクホール
 同窓会の動き
.
卒業生の中には、自然発生的に同窓会の発足を望む機運が高まり、関西、大阪の場合、1914年(大正3)磯野吉雄先生、赤沼ヤエ先生の助言を得、有志の立案で1915年に独自に同窓会を発足。1917年(大正6)に女子美術学校と佐藤高等女学校の両校生徒共通の校友会として、「鏡友会」が発足されたのを機に、今まで曖昧だった女子美術学校同窓会の組織を整え、正式に同窓会を発足。また佐藤高等女学校でも1918年に同窓会を発足させ、第一回卒業生を迎え入れた。女子美術学校の初代同窓会会長には、佐藤志津校長が就任し、以後、1968年(昭和43)までは、歴代校長または学長が会長に就任。佐藤進校長(1919年〜21年)・佐藤達次郎校長(1921年〜57年)。
1924年(大正13) 岡山支部発足。
1925年(大正14) 女子美術大学校創立記念式典に同窓生も出席。

鏡友会・同窓会の会報
1920年(大正9) 『女子美術学校鏡友会会報』創刊。『女子美術同窓会会報』創刊。
1922年(大正11) 『佐藤高等女学校同窓会会報』創刊。
1929年(昭和4) 『佐藤高等女学校鏡友会会報』創刊。
 
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