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1935-1945
杉並新校舎に移転し、
戦争の陰が時代を覆う
1936年(昭和11)の2・26事件(陸軍の皇道派青年将校を中心としたクーデター)、1937年(昭和12)に日中戦争がはじまり、ますます不幸な時代へ突入して、思想弾圧も厳しくなりました。国民生活の上にも戦争の影響が大きく影をおとし、生活必需品も次々と配給制となりました。東京開催予定の東京五輪も、日本万国博も中止。1941年(昭和16)小学校は国民学校になるなど全て軍時色になり、太平洋戦争がはじまり、ますます厳しい状態になりました。1942年(昭和17)には日本本土への空襲もはじまり、ついに1945年(昭和20)広島、長崎に原爆投下、日本は無条件降伏し、第二次世界大戦が終わりました。

1943年頃の刺繍科、卒業制作の前で
1943年頃の刺繍科、卒業制作の前で(写真提供:三木陽子さん)


古美術見学旅行にて  1935年(写真提供:岩浅美栄子さ
古美術見学旅行にて 1935年 
(写真提供:岩浅美栄子さん)
パリ祭にて  1936年
パリ祭にて 1936年
オーストラリアの女学生が来校  1935年
オーストラリアの女学生が来校 1935年
芸術の冬の時代
1940年(昭和15)には紀元2600年の奉祝典が多数開催、正倉院御物も初めて一般公開され42万人の観客が集まりました。パリ万博で、坂倉準三設計の日本館が受賞。上村松園は、女性初の帝国美術院会員となりました。一水会や自由美術など、多くの団体が結成されましたが、軍時色が濃くなり、大日本陸軍従軍画家協会が結成され、国策的絵画が鼓舞されて戦争絵画の展覧会が多くなりました。
 1941年には、美術雑誌の第一次統合により、既刊の38誌が廃刊させられ、1944年(昭和19)には多くの一般公募展が禁止され、美術資材配布のための受給者査定までも行われました。


軍事訓練で明け暮れる
1935年(昭和10)杉並区和田本町に完成した校舎に、女子美術専門学校は移転を完了し、菊坂校舎は、佐藤高等女学校の専用となりました。その頃の杉並校舎の校庭は、芝生に覆われ花が咲き、蝶々や蜻蛉が群れて周りも自然が一杯。新宿からバスは学割で2銭でした。

1936年(昭和11)には学則改正の認可が文部省からおりて、専門学校としての教育体制が整いました。しかし、戦争の影響により学生数は減少しはじめ、集団勤労作業や避難訓練などで、授業時間が削られるようになり、体育は軍事教練で軍服の指導者が来ました。刺繍科や造花科は贅沢視され廃科となり保健科となりました。文部省訓令により、女子美術専門学校報国隊が結成され、1944年には学徒勤労動員がはじまりました。この年、第5代校長に加藤成之先生が就任しました。

順天堂医学専門学校(校長佐藤達次郎)が、女子美術専門学校の校舎の一部を使って開校しました。(昭和24年3月まで同居)




おしゃれも冬の時代
第二次世界大戦の影響で、1939年(昭和14)にパーマネント禁止令が出ると、女性は大きなリボンで髪を飾るのが流行しましたが、1940年(昭和15)には、「贅沢は敵だ」のスローガンの下、娯楽施設は次々と閉鎖、アメリカ映画の上映禁止など、戦時色となりました。1942年(昭和17)には衣料切符は点数制になり、国民服と標準服が指定され女子はいわゆる、もんぺスタイルで大人も子供も、空襲に備え防空頭巾や救急袋を、常時身につけることが義務づけられました。生活全体に物資不足で、窮乏生活が続きました。

空襲に備えて窓ガラスに紙テープの補強。モンペ姿 1944年
  日の丸を染めた鉢巻きの勤労動員姿  1945年頃   軍事教練 1942年
空襲に備えて窓ガラスに紙テープの補強
モンペ姿 1944年
 
日の丸を染めた鉢巻きの勤労動員姿
1945年頃
 
軍事教練 1942年


勤労奉仕の毎日
1936年(昭和11)の2・26事件の日は東京中の交通も支障をきたし、学校日誌に遅刻欠席多しと記され、不穏な時代の幕開けを予想させます。折しも珍しい大雪に我が校の生徒らしい思い出の文があります。「…誰云うことなく飛び出して大きなヴィナス像の協同制作に取り組んだ。…みるみる大理石のような白い彫像ができ上がった。…九州弁の足助先生「…これはよくできたケッシャクですよ。もう一つ玄関前に作りなシャイ…」(昭和12年洋画卒 関野寿子さん)

授業をサボっての生徒達の行動にも、折からの雪との出会いを大事にするようなこの一事は、本校の校風をしのばせるものがあります。しかし、軍時色が増して、リベラルな気風を維持して芸術の基本を学んでいる学生生活にも、容赦なく時代の風は吹きつけ、勤労奉仕に明け暮れる時がやってきました。西欧文化排斥の気運が高まり、洋画の道具を持ち歩くことさえ国賊視され、風呂敷で包み隠して通学するような世相でした。

寮では、食事を雑炊にするか、すいとんにするかで論争?することもありました。
「…学徒動員で軍需工場へ。零戦部品作り…1945年(昭和20)になると空襲が激しくその都度地下壕へ。ある時、警報解除で外に出て吃驚。煙が立ち込め、大きな工場棟が全て消えている。隣の壕の人は死亡…」(昭和22年洋画卒 吉江麗子さん)に見られるような日々のうちに終戦。軍需工場に取り残された学生はほこりのたまった教室に戻り、未知の進駐軍に対する恐怖から自殺用の青酸カリを分け合って持つなど想像を絶する時代でした。


窮乏の学生生活
テレピン油の代わりに、鯨の油。フィキサティーフは松脂とアルコールで作り、絵の具は行列で1本づつ配給されて空チューブと交換するが、好きな色など選べません。配給もなくなり衣料関係ももちろん不足して、廃物利用など工夫しましたが、寮では空襲の合間、夜間授業を受けられることさえ喜んでいる当時の学生の記録がありました。



グループ結成も活発。
三谷十糸子
三岸節子さん
(大正13洋画卒)
『霧』

   
団体展の出品が多く、グループも次々に結成。伸草社(昭和10卒 日・洋)、野生会(昭和10卒 洋)、彩虹会(昭和10卒 洋)、麦陽会(昭和11卒 洋)、新虹会(昭和12卒 日)、杉芽会(昭和12卒 洋)、萌彩会、蒼生会(昭和12卒 洋)、芬(あおり)会(昭和14卒 洋)、美萌社(昭和14卒 洋)、十二彩会、秋紅会(刺繍)、早芹会 など。

1934年、三岸節子さん(大正13洋画卒)は、夫の好太郎氏に先立たれ三人の幼子を絵筆一本で育てる決意で苦闘していました。当時、画家として認められるのは、団体展の会員であることが必要条件でしたが、女性が会員であることは認めない時代。幾多の苦難に立ち向かいながら次々と作品を発表し続け歴史に残る画家となりました。
(『炎の画家三岸節子』吉武輝子著 文芸春秋刊より要略)
1945年の物価
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コーヒー‥‥‥5円
鉛筆‥‥‥‥‥20銭
とうふ‥‥‥‥20銭
 同窓会の動き
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1936年(昭和11) 第36回同窓会総会を日比谷三信ビル東洋軒にて開催。
1937年 第37回同窓会総会を上野精養軒にて開催。第1回仙台支部同窓会。
1938年 第38回同窓会総会は戦局の折から中止。札幌支部同窓会。
1939年 『女子美術専門学校同窓会会報』第一輯発行。(本誌を第一輯と改めたのは出版法上の必要から…と編集後記にある) 同窓会規約制定。入会一時金4円。
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