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古美術見学旅行にて
1935年
(写真提供:岩浅美栄子さん)
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パリ祭にて 1936年
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オーストラリアの女学生が来校 1935年
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1940年(昭和15)には紀元2600年の奉祝典が多数開催、正倉院御物も初めて一般公開され42万人の観客が集まりました。パリ万博で、坂倉準三設計の日本館が受賞。上村松園は、女性初の帝国美術院会員となりました。一水会や自由美術など、多くの団体が結成されましたが、軍時色が濃くなり、大日本陸軍従軍画家協会が結成され、国策的絵画が鼓舞されて戦争絵画の展覧会が多くなりました。
1941年には、美術雑誌の第一次統合により、既刊の38誌が廃刊させられ、1944年(昭和19)には多くの一般公募展が禁止され、美術資材配布のための受給者査定までも行われました。
1935年(昭和10)杉並区和田本町に完成した校舎に、女子美術専門学校は移転を完了し、菊坂校舎は、佐藤高等女学校の専用となりました。その頃の杉並校舎の校庭は、芝生に覆われ花が咲き、蝶々や蜻蛉が群れて周りも自然が一杯。新宿からバスは学割で2銭でした。
1936年(昭和11)には学則改正の認可が文部省からおりて、専門学校としての教育体制が整いました。しかし、戦争の影響により学生数は減少しはじめ、集団勤労作業や避難訓練などで、授業時間が削られるようになり、体育は軍事教練で軍服の指導者が来ました。刺繍科や造花科は贅沢視され廃科となり保健科となりました。文部省訓令により、女子美術専門学校報国隊が結成され、1944年には学徒勤労動員がはじまりました。この年、第5代校長に加藤成之先生が就任しました。
順天堂医学専門学校(校長佐藤達次郎)が、女子美術専門学校の校舎の一部を使って開校しました。(昭和24年3月まで同居)
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