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1945-1959
専門学校から新制大学へ。
卒業写真  1951年
卒業写真 1951年
  復興に向けて
終戦を迎えた日本は、衣食住すべてが満たされない時代でした。1946年(昭和21)婦人の参政権が認められ初の女性議員39名が誕生したことは、女性にとって希望の持てるニュースでした。
また、六・三・三制の義務教育がはじまり国民全体のレベルを上げることになります。食うや食わずのこの時代、湯川秀樹のノーベル賞受賞は国民を勇気づけました。終戦から5年目、朝鮮戦争が勃発し、朝鮮特需で復興に弾みがつきました。

新三種の神器
戦後、人々は食べられることが第一。衣に関しては身にまとうものさえあれば、住に関しては雨露をしのげれば良かった時代から、比較的早く復興して、多くの流行を生み出しました。
女性のファッションとしては、ワンピースのデザインがAライン、Hライン、ウエストをキュッと締めた落下傘スタイル(ふくらんだペチコート着用)のスカート、真智子巻のショールスタイル、靴下はシームレスストッキング、靴はピンヒール。伊東絹子がミスユニバースとなり、八頭身美人が流行語となりました。皇太子のご成婚にともない、ミッチーブームがおこり、そのファッションも流行します。
生活では、新三種の神器(洗濯機、冷蔵庫、テレビ)、赤電話初登場、テレビ放送開始、トランジスターラジオ発売。皇太子ご成婚映像を見るため、多くの家庭でテレビを購入。美智子妃殿下の一挙手一投足が話題となり、開かれた皇室として歓迎されました。娯楽ではフラフープ、ダッコチャン、プレスリー、ロックン・ロール。映画界では、映画「太陽の季節」「狂った果実」が封切られ話題を呼び、同時に洋画ブームが到来し多くの名作が上演されました。


食欲に文化を吸収
1945年(昭和20)9月、焼け野原の東京銀座日動画廊で三岸節子が戦後初の個展を開きました。戦後の荒廃した時代、1948年(昭和23)上村松園の文化勲章受章は、明るい話題でした。1949年(昭和24)法隆寺金堂焼失。1950年(昭和25)金閣寺炎上。1951年(昭和26)マチス展、ピカソ展。特に1954年(昭和29)フランス美術展では、見学者が会場の上野博物館を一周する盛況ぶりで、文化に飢えていた日本人の心に潤いを与えました。マリノ・マリーニの彫刻が当時の日本橋白木屋デパートに飾られ話題を呼びました。バーナード・リーチの個展も開催されました。
鎌倉の近代美術館をはじめとして国立近代美術館、ブリジストン美術館、コルビジェ設計による国立西洋美術館などが開館されました。
海外ではワシントンにおいて、日本古美術展が開催され、棟方志功がサンパウロビエンナーレにて一等となりました。丹下健三がアメリカ建築家協会賞を受賞。



同居中の順天堂医専の学生と
旧杉並校舎
同居中の順天堂医専の学生と
旧杉並校舎
生活・習ったこと・技法
終戦直後の1945年(昭和20)8月末、電報で9月1日の授業再開が呼びかけられました。校舎の床や生垣の柵を燃料にするという辛い時代でした。翌年の新学期は5月。食料難のため、早く夏休みになりました。
上野の美校生の使った木炭紙を岩田売店のおじさんが手に入れ、裏にデッサンしました。油絵のキャンバス代わりに、パラシュートの布に描いたりもしました。中野の駅近く、森重画材屋の廊下で溶油や透明ゑのぐの用法を教えられました。
昭和30年代、学校に通うには、新宿または荻窪から往復25円の都電か、余裕のある人は片道15円のバスを利用しました。中野まで歩く人もいました。寮生活は、堀井先生の厳しい監督ぶりが伝えられていましたが、寮祭はパリ祭として楽しく面白かったようです。木造校舎の地下に岩田売店があり、30円のラーメンは天下一品でした。


個性豊かな先生方
新井泉先生(図案)
「乗松巌・河野鷹思・松川烝二・福田良一等の同志的な教授陣を他校に求めることは不可能だ」と口癖のように話されました。
桑沢洋子先生(服飾)
機能的な服のデザイン等で社会的にもご活躍で、仕事をもつ女性の素晴らしさを具現されました。東京造形大学の創始者であり、現付属の制服も先生のデザイン。
桜井悦先生(洋画)
学生がモデルを交代でしていましたが、先生は、お描きになったクロッキーをモデルにくださいました。
高田力之・杉井あつみ先生(服飾)
どんなファションにも対応できる理論的な洋裁を教えてくださり、お二人のすばらしさは卒業後だんだんわかってきました。お二人ともぴったりと体に合った美しいスーツを着ていらした。
西田正秋先生(人体美学)
学部と短大の合同授業が講堂で行われましたが、暖房がないため、先生は裾をハサミで切った兵隊のオーバーを着て授業をしていました。
村岡景夫先生(哲学)
包容力に富み慈父のように皆から慕われました。学校の要のような存在で、先生がいらっしゃると安心感を覚えました。
森妍子先生(服飾)
フランスで服飾を学ばれた美しい貴婦人のような先生でした。フランス刺繍と洋裁の指導は優雅な雰囲気でした。
森岡喜三郎先生(学監・英語)
戦中・戦後にかけて学監として、学長先生を補佐されました。大学昇格に熱意を傾け、新制大学の誕生には中心となって活躍なさいました。


新制大学図案科  1954年(写真提供:田辺麗子さん)
新制大学図案科 1954年
(写真提供:田辺麗子さん)
校舎焼失 1956年4月1日
校舎焼失 1956年4月1日  
 完成した新校舎  1957年
完成した新校舎 1957年

新制大学としてスタート
1949年(昭和24)2月、学制改革により新制大学となりました。美術学科(4年制)、服飾学科(2年制)、別科(1年制)を設置。同年、順天堂医学専門学校の学生が御茶ノ水に戻ります。7月、第6代校長に佐藤達次郎先生就任。
1950年1月、日本橋三越で初めての女子美展を開催。以後新設の工芸科は芹沢金圭介、柳悦孝、柚木沙弥郎先生等の指導のもと、学生作品は世間の注目を集めました。3月、第3代理事長に加藤成之先生就任。
1953年5月、新宿三越の全日本学生染色展で、女子美が個人、団体とも賞を独占。
1955年(昭和30)頃から入学志願者が急増し、競争率が高くなりました。
1956年4月、旧木造校舎一部焼失。火災の煙も収まらない校庭で、青空入学式が行われました。
1957年6月、第7代学長に加藤成之先生
就任。
1958年3月、鉄筋コンクリート本館完成。12月、「女子美大展」が大阪高島屋にて開催され好評を博し、関西方面に本校の認識を高めることになりました。
1959年(昭和34)安宅奨学金授与開始。


1955年の物価
 
大学卒初任給‥‥
ラーメン‥‥‥‥
はがき‥‥‥‥‥
新 聞‥‥‥‥‥
国鉄初乗り‥‥‥
都バス‥‥‥‥‥
パーマ‥‥‥‥‥
コーヒー‥‥‥‥
映 画‥‥‥‥‥
 
5,600円
30円
5円
330円
10円
15円
395円
50円
133円
 同窓会の動き
.
1945年(昭和20) 8月6日、原爆投下によって同窓生も被災。広島在住で被害の軽かった同窓生が、1948年まで同窓生の消息を探し求めた。この仲間達によって、戦後の広島支部が再スタートした。
1950年 会長 佐藤達次郎。入会金100円、会費500円。50周年記念号として会報が発行。短大の第一回卒業生が同窓会に入会。
1951年 1月、鹿児島支部発足。10月、山口支部発足。同月、福岡支部発足。(大分も同時に活動するが1965年4月に福岡支部より独立。)
1952年 同窓会報『女子美術』2・3号発行。徳島支部発足。
1953年 4月、初の芸術学士誕生。また、図案科からはじめての卒業生を同窓会に迎えた。同窓会報『女子美術』4号発行。
1954年 同窓会報『女子美術』5号発行。三重支部発足。
1955年(昭和30) 入会金200円、会費500円。神奈川支部発足。同窓会報『女子美術』6号発行。
1956年 総会で火災見舞いの募金を決議、大学復興預金1口2万円および復興資金1口300円(788,600円を贈呈)。同窓会報『女子美術』7号、復興記念号発行。富山支部発足。
1957年 会長 加藤成之。卒業生仲佐初枝が初めて副会長になる。宮城支部発足。大学復興資金931,128円贈呈。
1958年 同窓会報『女子美術』8号、本館落成記念号9号発行。函館支部発足。大学復興資金856,928円贈呈。新潟支部再発足。
1959年 入会金500円、会費1,000円。前会長 佐藤達次郎逝去。5月総会を八芳園にて開催。同窓会報『女子美術』10号発行。愛知・熊本支部発足。
短期大学部図工科絵画コース  1959年
短期大学部図工科絵画コース 1959年
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