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上野・谷中の生家で
左から父郷倉千靭氏、 和子さん(5才)
弟宗明氏、母蔦子さん
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女子美術専門学校2年生の時、学芸会の
「そばや高尾」に殿様役(右から4人目)
で出演
昭和8年
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郷倉和子さんは、日本画家で日本芸術院会員の郷倉千靭氏と蔦子さんの長女として、東京都谷中に生まれました。両親ともに出身は富山県で、父の実家は呉服商でした。自らも芸術院会員で2002年秋に文化功労者として顕彰された時、郷倉さんは父の郷里である小杉町の名誉町民の称号を受けています。
父は著明な日本画家で、小さな頃から多くの日本画家が家に出入りするような生活環境のなか、ご自身が日本画家を志すまではどのような道のりがあったのでしょうか?
幼い頃より父の創設した「草樹社」では研究会に時々出席し塾生の作品を見ていた郷倉さんは、早くから才能を発揮していました。昭和2年三輪田高等女学校4年生のとき、郷倉さんの絵は皇太后様への献上画に選抜され、それを機に図画の赤堀千代子先生より女子美へ行くように薦められたそうです。
昭和8年に女子美術専門学校(現在の女子美術大学)へ入学しましたが、在学中は父が郷倉千靭画伯ということで、何かと窮屈な思いをすることも多くあったそうです。自由な校風の女子美の同級生は、時には羽目をはずすようなこともあったようですが、郷倉さんはひたすら堅実に勉学に励んでいました。このとき台湾人留学生の周紅綢さんと懇意になり、生涯に渡る交流を持つことができました。
今になってみれば学生時代に一生懸命やっていて良かったと回想されています。昭和10年(1935)には首席で女子美術専門学校を卒業しました。
卒業の翌年には第23回院展に「八仙花」を出品し初入選しました。当時はそもそも22歳という若さで入選することが珍しかったうえに、女流画家が少ない時代でもあったため、周囲の人から父に画を描いてもらったと言われ、非常に腹が立ち、このことがきっかけとなって、絵を描き続けようと決意されたそうです。
その後も続けて3回院展に入選し、この汚名をはらすことができました。3回目の昭和14年第26回院展では「庭の春」で入選し日本美術院院友にもなりました。 |