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up date 2003.10.07

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ライブラリでは、アートの様々な分野で第一線に立つ、ビッグな女子美の大先輩をご紹介いたします。

ライブラリ第4回
郷倉和子  
郷倉和子 郷倉和子さんは父と同じ日本芸術院会員の日本画家で、幼い頃より日本画に囲まれた環境でした。昨年(平成14年)秋には日本画壇での活躍により文化功労者として顕彰されました。


このたび、郷倉和子さんが女子美術大学名誉博士となられました。10月25日に授与式が行われました。心よりお祝い申し上げます。


年譜はこちらです。
 





日本画家ばかりの中で画家を志すまで

幼少時代
上野・谷中の生家で
左から父郷倉千靭氏、 和子さん(5才)
弟宗明氏、母蔦子さん

女子美学芸会
女子美術専門学校2年生の時、学芸会の
「そばや高尾」に殿様役(右から4人目)
で出演
昭和8年
郷倉和子さんは、日本画家で日本芸術院会員の郷倉千靭氏と蔦子さんの長女として、東京都谷中に生まれました。両親ともに出身は富山県で、父の実家は呉服商でした。自らも芸術院会員で2002年秋に文化功労者として顕彰された時、郷倉さんは父の郷里である小杉町の名誉町民の称号を受けています。

父は著明な日本画家で、小さな頃から多くの日本画家が家に出入りするような生活環境のなか、ご自身が日本画家を志すまではどのような道のりがあったのでしょうか?

幼い頃より父の創設した「草樹社」では研究会に時々出席し塾生の作品を見ていた郷倉さんは、早くから才能を発揮していました。昭和2年三輪田高等女学校4年生のとき、郷倉さんの絵は皇太后様への献上画に選抜され、それを機に図画の赤堀千代子先生より女子美へ行くように薦められたそうです。

昭和8年に女子美術専門学校(現在の女子美術大学)へ入学しましたが、在学中は父が郷倉千靭画伯ということで、何かと窮屈な思いをすることも多くあったそうです。自由な校風の女子美の同級生は、時には羽目をはずすようなこともあったようですが、郷倉さんはひたすら堅実に勉学に励んでいました。このとき台湾人留学生の周紅綢さんと懇意になり、生涯に渡る交流を持つことができました。
今になってみれば学生時代に一生懸命やっていて良かったと回想されています。昭和10年(1935)には首席で女子美術専門学校を卒業しました。

卒業の翌年には第23回院展に「八仙花」を出品し初入選しました。当時はそもそも22歳という若さで入選することが珍しかったうえに、女流画家が少ない時代でもあったため、周囲の人から父に画を描いてもらったと言われ、非常に腹が立ち、このことがきっかけとなって、絵を描き続けようと決意されたそうです。
その後も続けて3回院展に入選し、この汚名をはらすことができました。3回目の昭和14年第26回院展では「庭の春」で入選し日本美術院院友にもなりました。



女性で家庭を持ちながら画家であり続けるということ
 
父と
父と三軒茶屋のアトリエの前で
昭和12年
女子美術専門学校の卒業後は安田靫彦先生の火曜会に入会し、1ヶ月おきに大磯に通いました。
安田靫彦先生に師事された理由または経緯については、父が自分の娘を指導することはできないので、本格的に絵の研究をするのなら安田先生の下でおやりなさいと言ったことによります。そこでは、各人のそれぞれの個性を生かすような教えで、自由に制作に取り組みました。

着実に画家として業績を重ねるなか、終戦の前後に長男を出産され、この間の5年を除けば、毎年院展に出品され入選しています。長い人生の中ではいろいろなことがあって、制作を中断する理由なら、いくらでもあるように思われますが、郷倉さんは昭和11年の初入選から現在まで70年近く出品を続けられています。常に誠実に歩み続けることは容易なことではなかっただろうと思われます。郷倉さんの絵に対する信条に「安直に感動しないことだと思います。」という言葉がありますが、一層重みのある言葉に思えてきます。



具象から半具象という表現の変化

真昼
「真昼」1957年 紙本着色 額装
昭和27年(1952)頃から、父千靱氏の画塾草樹社の馬場不二先生の指導を受けて、画面を写実から半具象の表現に移行していきました。このとき造形に関する考え方を学び、馬場先生のお宅へ通い続けました。
しかし、薫陶なかばにして師が他界し、昭和31年(1956)岩崎英遠先生に指導が引き継がれました。表現上の効果について、気の付きにくい箇所をご指導いただいたそうです。昭和32年(1957)、昭和35年(1960)には日本美術院賞・大観賞を受賞し、日本美術院同人に推挙されました。
その後昭和36年(1961年)には父とともにインド、香港、シンガポール等を訪れ見聞を広めた成果として、「熱国の幻想」という連作を発表しました。戦後のモダニズムの波のなか、幻想的な表現を模索したのです。

昭和40年(1965)に「ふと気がついてみると半具象から幻想絵画になっていると自覚し」そこから「幻想絵画をつきつめると、抽象になってしまう。私は抽象絵画はやりたくなかったので、抽象絵画を半具象へ戻そうと思って、現実と幻想を組合わせようと試みた」という表現上の試行錯誤の時期に突入していきます。

 


【関連ページ】

潺画廊
http://sengarou.co.jp/index.html
昭和17年日本画家がアトリエとして建てた日本家屋をアート・スペースとして改造した画廊です。


【主な収蔵先】


東京都現代美術館
富山県立近代美術館
愛知県美術館
佐久市立近代美術館
世田谷美術館
山種美術館
大本山増上寺会館
宮内庁


【参考文献】

「郷倉和子作品集――梅花の調べ――((株)潺画廊 2000年)
「梅花の調べ―郷倉和子展」
    (文化功労者顕彰記念 梅花の調べ―郷倉和子展富山県水墨美術館・北日本新聞社 2003年) 

 
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