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up date 2003.05.02

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ライブラリでは、アートの様々な分野で第一線に立つ、ビッグな女子美の大先輩をご紹介いたします。

ライブラリ第3回
片岡球子
片岡球子 片岡球子さんは独自の画風でご自分の道を極められ、文化勲章をはじめ
数多くの賞を受賞され、長く活躍されている日本画家です。

年譜はこちらです。
 




【強さの源の子ども時代】


片岡球子さんの強い個性、そしてその強靱な意志はどのようにして育まれたのでしょうか。また、絵の道へ進まれるきっかけは、どのようなものだったのでしょうか。





厳しく育てられた子ども時代

厳しく育てられた子ども時代
小学校1年生の頃(右側)、妹の敏子さんと
明治末年
片岡球子さんは、札幌で醸造業を営む大きな商家の、8人きょうだいの長女としてお生まれになりました。大勢の従業員がいるため、一日に一俵の米を炊くほどの大所帯で、片岡さんのお母様は利き酒や納税申告といった家業と家事の一切を取り仕切るという大変な働き者でした。さらにお母様は子どもたちの教育にも非常に熱心で、文字ひとつとっても教科書と違っていれば書き直しをさせたのだそうです。

「心ここにあらざれば、見れども見えず、聞けども聞こえず。食らえどもその味を知らず」
というのが口癖のお母様はとても折り目正しく、ある日、小学生だった片岡さんが点数の良くない答案を破り、川に捨てたことが知れたときには家を追い出されそうになるほど厳しく叱られたこともあったそうです。

大店のお嬢さんであっても決して甘やかされることなく、長女としての責任感も強く持っていた片岡さんは、兄弟姉妹を何くれとなく守るという芯の強い子ども時代を過ごしました。



難関の名門校を受験
 
札幌高女の制服を着て
札幌高女の制服を着て
その芯の強さは小学校6年生になったとき、北海道中から受験生の集まる大変な難関である名門の庁立札幌高女を受験しようと心に決めたときにも大きく現れました。片岡さんは夜遅くまで猛勉強を重ね、眠くなると軒に下がったつららを折って背中へ入れ、目をさましながら勉強を続けたそうです。受験を3か月後に控えた12月から2月の終わり近くなるまで肺炎で寝込むというアクシデントにも負けず、試験当日には病み上がりで震える手をおさえながらの毛筆での作文も書き上げ、見事に難関突破を果たし合格を勝ち取ったのでした。「私の長い一生の中で、この時ほどの喜びは二度とありません」と、片岡さんは後におっしゃっています。

北海道中の少女の憧れである袴の裾に山がたの白線が入った制服を身に付け、通い始めた札幌高女は大変に規則の厳しい学校でした。下着の襟は真っ白でなければならず、毎朝整列しての襟の点検があり、少しでも汚れていればその場で、または家へ取り換えに戻らなければならなかったそうです。

札幌高女時代、片岡さんの得意科目は数学と英語でした。ところが、あるときスズランを写生する時間があり、工夫をして描き上げた作品が学年の代表作に選ばれたのです。そして、その年の学芸会では参観の保護者の前で絵を描くように命ぜられ、それ以来、学芸会では片岡さんが皆の前で絵を描くことが恒例となりました。



女子美入学へ

しかし、そうした才能の萌芽はあっても心の中にはまだ絵への思いはありませんでした。当時の高女は4年制で師範科と家政科に分かれており、その上に補習科が1年ありました。片岡さんは医師になることを目指して師範科を選び、さらに補習科にも進んで一心に勉強をする毎日だったのです。

そして卒業を間近に控えたある日、親友に「私は女医になる」と、打ち明けたところ、「私がもし貴女だったら、断然、絵かきになるわ。貴女にはそのほうがずっと意義がある」と断言されたのです。片岡さんはその瞬間に「そうだ!私は、絵かきになるのだ!」 という、ぱっとスパークするようなインスピレーションを感じたそうです。子どもの頃から長い間持ち続けてきた医師という職業への思いをさらりと捨てた、それは運命の瞬間でした。それからは神がかったように絵の勉強ができる学校を探し、そして現在の女子美である、私立女子美術専門学校の日本画科へ入学したのです。

入学したのは大正12年、関東大震災の年で、自由主義が華やかに花開いていた時代でした。映画を見に行ったり、ダンスをしたり、三味線を弾いてもとがめられることがなく、厳格であった札幌高女とは全く違った校風の女子美で、片岡さんは大きな解放感を味わったそうです。

そんな自由な女子美でも、恐ろしい緊張感にふるえることもありました。当時3年制であった女子美では年に2回、1年生から3年生までの制作を全て講堂に集め、鍵をかけて教授陣が採点して成績順に絵が並べられたのです。採点が終わって絵が並べられると学生に公開されました。「これを見に行くのには、大変な勇気を要しました」と、片岡さんはおっしゃっています。講堂の前に立って入ろうとしても足がすくみ、一歩踏み入れれば足がふるえてくるほど怖いものであったそうで、普段は自由でも実力勝負の絵の世界を学生にたたき込むという、締めるべきところはきっちり締める教育でした。自由な中で個性を育てつつも自らを厳しく律していかなければ絵の世界では生きていけないと知ることができる環境だったのです。







【情(こころ)ありて志つなぐ】

絵画のとりことなった片岡先生は絵かきとして世に出るまで、さまざまな葛藤を乗り越えて来られました。一人の人間が「生きる」ということは、どんなに多くの愛に支えられているものなのか。片岡さんはそのことを「情(こころ)あってこそ」と表現されています。





伯母のはからい
 
女子美入学のために上京した片岡さんは、東京に住む伯母の家に身を寄せていました。東京女高師の理科出身の伯母は、いとこたちと同様に片岡先生の勉強にも心くばりをしてくれただけでなく、紹介状をとり、松岡映丘の一の弟子といわれた吉村忠夫先生に師事できるよう、とりはからってくれました。

吉村先生は、当時の日本画の枠にとどまらない片岡さんの個性を潰さずに伸ばそうとしてくださる方でした。
「先生は、あらゆる機会をとらえ、私の個性の方向づけの基礎として、ふんだんに絵に関する栄養を与えてやろうと、男の沈黙のうちに、心をくだいてくださったのです」と、片岡さんは回想されています。そうした暖かく守られた環境で、絵かきになるための修業が始まりました。



絵かきとして生きる決意
 
絵かきになるという目標に向かって邁進し、卒業制作に夢中になっていた3年生のある日、片岡さんはお母様から 「卒業したらすぐに帰郷し、いいなずけと結婚するように」 という手紙を受け取ります。それは女学校時代から決まっていた結婚で家同士のお付き合いもあり、乙女らしい愛を寄せている方でもありました。ご両親にとっては女子美進学は嫁入り支度の一つという認識でした。しかし、その時にはすでに、片岡さんは絵のとりことなっていたのです。

愛する人への思いと、絵かきとして世に出たいという強い希望の板挟みで深く悩んだ末、師に相談したところ、「絵かきになったほうがよろしかろう。みがけば何とかなるでしょう」というお言葉をいただいたのでしたが、続けて「絵かきになるつもりなら、北海道へ帰ってはなりません」と、きっぱりとアドバイスされたそうです。女性がいったん家庭へ入れば、絵を続けていくことには困難が伴います。そうなれば、ここまで努力し、みがいてきた個性がそこで潰されてしまうことも少なくないはずです。「帰ってはなりません」というのは弟子を思いやる師匠の気持ちであったに違いありません。その言葉を胸の中で何度も繰り返した片岡さんは、北海道へは帰らず、東京で絵の勉強を続ける固い決心をされたのです。

しかし、帰郷せず東京で絵の勉強を続けるということは親に背くことになります。今後勉強を続けていくために親元から送金してもらうということはできません。片岡さんは女子美卒業と同時に、横浜市立大岡小学校へ奉職することを決めました。札幌高女補習科卒業の時にもらった小学校正教員の免状が役立ったのでした。

横浜に移り住んだ片岡さんの元には、「家庭をもって夫を助け、子を生み育てて家をなすのも女の立派な生き方である。しかし、作家となって努力して、一生をそれに捧げるのも、それも立派な生き方であろう。お前の選んだ生き方に、母は不服はありません」という、お母様からの深い愛情と決断を示す手紙が届きました。先方へお詫びし、夫との間にもトラブルがあったことが読み取れる長い手紙、そして愛していながらも絵にほれ込んでしまったために結婚を断念した心の葛藤。こみあげるものを押さえきれなくなりながらも手紙を読み返し、秘かな葛藤はその後も尾を引いて続いたそうです。



続く落選

赴任先の大岡小学校
横浜大岡小学校にて、教え子たちと
昭和8年
赴任先の大岡小学校は、校長先生、教頭先生がともに教師たちの勉学を奨励しており、何人もの教師が東京の夜学へ通っていました。校長先生方は片岡さんの絵の勉強にも大きな理解を示してくれただけでなく、出品画の制作のときには音楽教室の一部を使わせてくれ、泊まり込みまで許可してくれました。

そんな中、優しく目をかけてくれている師匠の吉村先生は、いつまでたっても「帝展(現在の日展)に出品しなさい」とは言ってくれませんでした。それは強い個性が何とか形になったところで出品させようという親心だったのですが、どうしても出品して自分の力を試してみたかった片岡さんは、師に無断で帝展に出品してしまいます。結果は落選でした。その翌年も同じように出品しますが落選。「うちの弟子は出品すると入選どころか賞までとるのに」と師がもらしたという話を伝え聞き、背中いっぱいに×印をつけられた思いだったといいます。



出会いと別れ

 
翌年の夏、片岡さんは帝展に3度目の挑戦をすべく制作に打ち込んでいました。そこへ校長先生に連れられて、一人の男性がやってきました。その男性は、落選続きを気の毒に思った校長をはじめとした先生方が片岡さんの絵を見てもらうためにお願いし来ていただいた、横浜在住の作家、日本美術院院友の中島清之先生だったのです。中島先生はその時描いていたアジサイをほめてくださいましたが、3度目の落選。その後も時々訪れては、いろいろな話をしてくださる中島先生でしたが、あるとき、「院展の人たちは入落で勉強をしているのではない。好きな絵を追及して命をおわる、人生それでいいじゃないか」 とおっしゃいました。当時、絵が入選するというのはそれだけで絵かきとして認められるという社会的通念がありました。絵かきになりたければ、まず絵が入選しなければ…… と、ひたすら入選を目指していた片岡さんにとって「入落など問題じゃないよ」という中島先生のお言葉は、まさに目からウロコが落ちるものでした。そして、片岡さんは帝展ではなく院展に出品したいと思うようになったのです。

しかし、院展に出品したいと師に相談したとたん、即刻、破門を言い渡されてしまいました。帝展の師につきながら院展に出品することは許されなかったのです。優しかった師から言下に破門を言い渡され、ピシャリと障子を閉められ取りつくしまもなかったこのことは片岡さんの胸の内に、激しく痛む石のかたまりとなって残りました。かけがえのない師を一瞬にして失ってしまった悲しさと、母や伯母への申し訳なさは、ないまぜとなって長く自らをさいなみ続けたのでした。



院展への出品

枇杷
「枇杷」1930年

      
破門を受けたその年、中島先生に師事するようになり、10日間徹夜をして失神したりしながらも描き上げた「枇杷(びわ)」を院展に出品、初入選となりました。小学校では受験組を受け持ち、夜の9時まで子どもたちの勉強を見る生活でした。夜明けとともに起きて絵を描き、7時40分には登校し、9時に学校を終えれば戻ってまた絵を描く。布団を敷いて寝たのは風邪をひいた時ぐらいだったといいます。初入選は、そんな激しい絵への思いとたゆみない努力の賜物でした。しかし、3回連続落選という苦い経験から、入選発表の日たまたま滞在していた従妹の家で新聞を見せてもらうことは恐ろしくてできず、朝、外へ新聞を買いに出て入選を知ったのでした。昭和5年の8月31日のことでした。

横浜へ戻ると、日頃ご夫婦で娘のようにかわいがってくれている下宿先のご主人が何種も新聞を買い込んできていたそうで、心から喜んでくれていました。ご夫婦は「病気をさせてはならない」と、小学校で制作をする片岡さんに炊き立ての暖かいお弁当を毎日届けてくれたりもしたそうです。

そして、その年の院展第一日目のことbb会場である上野の都美術館入口で、片岡さんは破門を言い渡されたかつての師である吉村忠夫先生と再会します。「よかったね」というのが吉村先生の第一声でした。かつての師は第一日に片岡さんの入選作品を見に来てくださったのです。時間をかけて丁寧に絵を見たあと、「よかったね、勉強を、しなさいよ」と励ましの言葉をかけて退室されました。その後も入選の度に見に来てくださった吉村先生に、片岡さんは「師」というもの、さらに「指導する」ということについて無言の教えを受けたとおっしゃっています。





【参考文献】
 
「情ありて」(神奈川新聞連載 昭和54年2月21日b昭和54年8月8日)
「熱き挑戦−−片岡球子の全像展」(横浜美術館 2000年)
「片岡球子展」(東急本店開店20周年記念片岡球子展図録 東急百貨店片岡球子展実行委員会 昭和62年)
「片岡球子−−個性(こころ)の旅路」(奥岡茂雄 著 ミュージアム新書 北海道新聞社)
「週刊朝日百科 世界の美術7」(朝日新聞社)
「片岡球子−−志、富士より高く」(ビデオ・先輩からのメッセージ 女子美術大学同窓会 1999年
「六十一年、文化功労者になられた片岡球子先生をお訪ねして」(TAYORI <女子美同窓会会報> 昭和62年 6月)


 
 
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