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up date 2003.06.03

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ライブラリでは、アートの様々な分野で第一線に立つ、ビッグな女子美の大先輩をご紹介いたします。

ライブラリ第3回
片岡球子
片岡球子 片岡球子さんは独自の画風でご自分の道を極められ、文化勲章をはじめ
数多くの賞を受賞され、長く活躍されている日本画家です。

年譜はこちらです。




【弛まざる挑戦】


暖かな愛情に支えられ、新しい制作に挑む力を持ち続けてきた片岡さんは、日本美術院同人に推挙されたのちにも、常に新しい世界を拓くべく、挑戦と勉強を続けていらっしゃいます。





度重なる落選

「緑陰」1939年
25歳で院展初入選を果たし、上野の精養軒で開かれた入選祝い会は、絵かきとしての人生の門出となりました。大先輩の前でお酒をいただくという晴れがましさ、人生の中で二度とないと思われるほどの感激を味わいながら、先輩方の後にしっかりと続かなければという決意を新たにしますが、秋の院展では翌年・翌々年は落選。その翌昭和8年には、教え子をモデルとした「学ぶ子等」が入選します。春の院展では毎年入選し、昭和10年には下宿先の母子を描いた「炬燵」が院展試作賞を受け、前田青邨先生から褒められますが、秋はまた落選が続いてしまいます。出品作が審査される時、入選作には青い紙、落選作には赤い紙が貼られるため、度重なる落選に赤色恐怖症になってしまい、赤い色をした氷イチゴは絶対に食べなかったり、道を歩いていて赤い色が見えたら道を変えて歩くということもあったそうです。絵かき仲間からは「落選の神様」とあだ名をつけられ「近寄ると落選がうつるぞ」などとひどいことも言われました。そんな時でも、中島先生ご夫妻や下宿先のご夫婦、そして勤め先の小学校の先生方は変わらず暖かく見守り、応援してくださっていました。

しかし、7度目の落選の日にはふと死を考えるほど思い詰めてしまいました。思い直して中島先生のお宅を訪れると「落ちるからこそ良い絵かきになれる」「片岡球子の絵は、誰の意見も手も入らない、片岡球子の絵でなければならない」と励ましてくださったのでした。

その後、昭和14年に「緑陰」が入選し、片岡さんは晴れて院友となりました。院展初出品から10年の歳月が流れていました。



小林古径先生のはげまし

片岡さんが院友となって2年後、院展の研究会で横山大観先生から「雄渾」という作品画題が出された時のことです。制作のために、かねてから見知っていた荒行をする御岳山の行者さんにモデルを頼むと、寒の入りから21日間の修業をする条件で引き受けてくれました。受験組の子どもたちを学校で指導しながら、約束どおり激寒の時期に水行まで行った片岡さんの情熱を一目で見抜いた行者さんは、何も聞かずにお護摩の準備を始め、写生するよう言ってくれたそうです。鬼気迫る行者さんの姿を描いた作品「雄渾」は小林古径先生の目にとまり、研究会で二等賞を受賞し、その日の帰り、小林先生のお宅へ寄るようにという伝言も受け取られました。

小林先生のお宅では「今日の絵は良かった。あの勉強の仕方でよろしいから、一生懸命に勉強しなさい」「他人が何と言おうとも、あなたの絵を絶対に変えてはなりません」という励ましの言葉をいただいたそうです。当時の片岡さんにとっては雲の上の大先生ともいえる小林先生からの激励は大変な感激でした。しかし、その喜びを誰かに話してしまうとその幸運が煙のように消えていってしまいそうで恐ろしく、長い間誰にも語らず、胸の奥に大切に大切にしまいこむ秘密の思い出となったのです。片岡さんが37歳の初夏のことでした。



安田靫彦先生に師事

作品「美術部にて」
「美術部にて」1952年
小林先生から激励をいただいてから4年ほどたったある日、片岡さんは中島先生に連れられて、大磯にある安田靫彦邸へ行くことになりました。安田靫彦先生のご指命により安田先生に師事することになったのです。中島先生以外の方には師事しないと心に決めていた片岡さんでしたが、中島先生の強いすすめで入門することになり、勉強会に参加するようになりました。

その年に入選した「夏」は院賞をとることとなり、その後、着実に受賞を重ねていきます。しかし、どうしたら二次平面にダイナミックな立体感が出せるかについての悩みが常について回っていました。  そんな折、美術評論家の今泉篤男先生の「日本画の勉強には、彫刻のデッサンが特に必要である」という講演を聞き、彫刻の山本豊市先生にデッサンの教えを受けるべく、東京芸大へ出かけ、マッスでスケッチをとる方法を1年近くも通って学びました。

翌年の昭和27年、二人の女性を描いた「美術部にて」が大観賞を受賞。ついに院展の同人に推挙されたのです。師でもある中島先生と同時の推挙でした。



人物b歌舞伎役者を描く


作品「歌舞伎南蛮寺門前所見」
「歌舞伎南蛮寺門前所見」1954年


女子美卒業式
女子美術大学卒業式
(前列中央は奥村土牛氏、
その右が片岡さん)
昭和32年
片岡さんが一貫して追及し続けている重要なテーマに「人物」があげられます。

同人推挙から3年ほど後のこと、かねてから歌舞伎に興味を持っていた片岡さんは、次の出品作にはぜひ歌舞伎の舞台を題材とした人物を描きたいと強く思うようになりました。しかし、舞台をスケッチするだけではなく、どうしても楽屋で役者さんの厳密なスケッチをとらなくてはならないと考えて前田青邨先生にお願いにあがったところ、ご夫妻は快諾してくださり、しかも、夫人がわざわざ歌舞伎座へお連れくださることになったうえに、着物まであつらえてくださったそうです。さらに、歌舞伎座ではしかるべき人たちへ引きあわせてくださり、仕事のしやすいよう心配りをしてくださったのでした。

お芝居は木下杢太郎作「南蛮寺門前」で、モデルになってくださる役者さんは尾上梅幸さん、尾上松緑さん、市川海老蔵さんの3人でした。この3人の名優を1人1時間ずつ描いたのですが、中でも、尾上梅幸さんは、「おやじ(六代目菊五郎)は、ふんどし一枚になって、筋肉の動きを示しながら、僕に厳しく踊りを教えたものです。だからあなたも、外に見えたところだけ描いたのじゃだめ。腕なら腕の付け根からさぐって勉強するようなやり方でないと、とてもいい絵は描けない」と言いながら、娘の扮装なのに足をむき出しにして描かせてくれるなど、その気迫には大変強いものがあったそうです。徹底した写実に基づいて、その人物の本質まで鋭く描き出すbそうしてできあがったのが昭和29年に発表された「歌舞伎南蛮寺門前所見」だったのです。片岡さんはその後、舞楽のシリーズも手がけられました。

そして、昭和30年には長く勤められた小学校を退職され、母校である女子美で後進の指導にあたられることになりました。



火山、そして富士山
 
歌舞伎を題材にした絵を描くときに、配する風景を研究する必要があると感じた片岡さんは、海や山の写生をはじめ、活火山を描くようになりました。昭和37年に第5回現代日本美術展へ招待され出品した「桜島の昼」と「桜島の夜」の連作は、山を主題にした最初期の作品です。これらの絵の力強さは伝統的な基底物である絹や和紙ではなくキャンバスを用い、さらに膠ではなくボンドを使用したり、油絵具を併用していることにもよっています。

活火山を描き、次に休火山や死火山といった噴煙のない山に取り組むうち、片岡さんが行き着いたのは富士山でした。「桜島、浅間、昭和新山等の活気ある山々や、奇岩で名高い妙義山や、神住み給うと云う高千穂の峯など、活火山、休火山、死火山と追いつめて遂に富士までやってきました。急に富士からのストップがかかって立ち往生というところです。富士は雄大無比、厳しく、しかも美しい。全く大変な魅力です」と片岡さんはおっしゃっています。片岡さんは特に現場での勉強を大切にしておられ、対象が体の中に入ってくるまでデッサンするそうです。そうしていくうちに山はだに直接手で触れるような幻想にとらわれることもあるそうで、見る者に力を与えてくれる、エネルギーあふれる華麗で力強い富士山の絵の数々はそうした渾身の取り組みによって生まれているのです。



絵かきとして生きる決意

作品「面構」足利尊氏
「面構 足利尊氏」1966年
昭和41年、愛知県立芸大の創立時に懇請され、日本画の主任として着任された片岡さんは、徹底した写実に基づいて、その人物の内面までも描き出す歌舞伎のシリーズを飛躍的に展開させた「面構」シリーズに取り組みはじめました。教職を移られたひとつの記念として、日本に何かをした男、そして現代にも通じる思想を持った男を描く「面構」をライフワークにしていこうとお考えになったのでした。片岡さんが61歳のときのことです。

「面構」第一作は足利尊氏でした。京都の等持院で接した木彫の足利尊氏像は、国家の逆賊と学校で習った尊氏とは異なる人物像として感じた片岡さんは、そのことに触発されて描いたといいます。「面構というのは字の通りで、顔を構成する形、顔から受ける印象、感じでありますが、そこには人間の魂がのりうつっているものだと解釈して、その人物を解剖しようという試みです」「わたしの取り上げる人物が、もし、現代に生きているとしたら、その人はどのように現代の風潮、状況を考え、悩み、行動するかとの比重で考えて描く」と、片岡さんはおっしゃっています。力強い構図と華麗な色彩、そしてデフォルメされた人物の顔かたちは、歴史上の人物の生き生きとした個性を画面上でよみがえらせ、人格をむき出しにしたリアルな人物として、絵に対峙する私たちに迫ってくるようです。

また、片岡さんは江戸時代の浮世絵師も好んで描いていらっしゃいます。浮世絵師が印象派の基になったからというだけではなく、それぞれの個性の中で自分を発揮し、何ものにも束縛されず自由で権力にも屈せず、生命を張って描き続けたという、同じ絵かきとして尊敬する人物として取り上げ、描いているのだそうです。



人物−裸婦シリーズの制作

「裸婦bbポーズ3」1985年
昭和57年に喜寿を迎え、さらに芸術院会員に選ばれたことを機として、片岡さんは全く新しい人物の表現を追及していくことを決意されました。それが「ポーズ」というシリーズとして出品され続けている裸婦の研究です。

「彫刻家のマイヨールのような裸婦の作品が、日本で描けるようになりたいと思っております」と、片岡さんはおっしゃっています。立体としての実在の人体を、単なる写実ではなく、しかし存在感を失わないようとらえようと研究しておられ、「立体を平面におきかえることの難しさを、いやというほど味わいました。体は全部つながっていて、少しでも体を動かすと、思いがけない形に変化する。また、見えていない所を先に追及してから、見える所を処理しないとと思っても、見えない部分を正確にみつける力が乏しい。全体をみながら部分の処理をしていかないことには、裸婦は無理と思っていても、見渡す事が身につかず苦労いたしました」ともおっしゃっています。先生のあくなき研究はとどまることをしらず、エネルギッシュに画面に噴出していくかのようです。



絵を志す若い人たちへ
 
「落選の神様」などと呼ばれた不遇の時代を乗り越えてきた片岡さんが、絵を志す者に必ず言われるのは基礎の大切さについてです。
「基礎が大事。基礎って面白くないのよ。でも我慢して勉強すること」「まず、やろうと決心すること。そしてコツコツとやめずに長続きさせること」と、片岡さんはおっしゃいます。また、スピードに走りすぎる現代の世の中を憂えてもおられ、パッと咲いてパッと散るならともかく、作家として制作を続けていきたいのなら、じっくり粘りに粘っていいものを作らなくてはいけないともおっしゃっています。「勉強はちょっとやそっとじゃできない。積み重ねです。発掘です。死ぬまでの努力だと思います」「いきなりいい作家になんかなれません。だから最初は下手でも結構。そのままでいい。でも絶対やめないで続けること。やれば必ず芽が出ます」 あきらめず努力し続ければきっと道は開けるということを、片岡さんは強くおっしゃっています。






【参考文献】
 
「情ありて」(神奈川新聞連載 昭和54年2月21日b昭和54年8月8日)
「熱き挑戦−−片岡球子の全像展」(横浜美術館 2000年)
「片岡球子展」(東急本店開店20周年記念片岡球子展図録 東急百貨店片岡球子展実行委員会 昭和62年)
「片岡球子−−個性(こころ)の旅路」(奥岡茂雄 著 ミュージアム新書 北海道新聞社)
「週刊朝日百科 世界の美術7」(朝日新聞社)
「片岡球子−−志、富士より高く」(ビデオ・先輩からのメッセージ 女子美術大学同窓会 1999年
「六十一年、文化功労者になられた片岡球子先生をお訪ねして」(TAYORI <女子美同窓会会報> 昭和62年 6月)


 
 
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