 |
 |
|
展覧会場でお孫さんと
|
 |
|
「青い鳥」表紙
メーテルリンク/原作
中村真一郎/文 講談社1982年
|
 |
|
「マッチうりの少女」表紙
アンデルセン/原作
田中澄江/文 講談社1978年
|
 |
|
今回の展覧会の案内状
|
|
久保田あつ子さんは1943(昭和18)年女子美術専門学校(現・女子美術大学)高等科日本画部を卒業されて現在87歳。現役で活躍されている童画家です。
戦後約60年間、童画を描き続け、絵本のすばらしさを伝えてきました。2009年11月、その功績が認められ川西市民文化賞を受賞されました。
今年2010年8月に88歳を迎える久保田さんは、4月に米寿のお祝いを兼ねた展覧会を地元川西市で開催されました。
会期中、「久保田あつ子童画ひとすじ70年」という演題で、作家の道を振り返る講演会も行われました。
***
昭和を代表する童画家として活躍する久保田さんは、戦後日本の絵本の歴史を開いてきた講談社、小学館、ひかりのくになどの大手出版社をはじめとして絵本、幼児向け月刊誌、雑誌、児童書にたくさんの絵を描かれてきました。世界の名作「青い鳥」、「マッチうりの少女」、「3びきの子ぶた」、「つるの恩返し」などなど、幼い心に夢を与えてくれる絵本。久保田さんの画風には強い個性はありませんが、誰もが幼い頃に見たことのある優しく記憶の底に残るような絵です。それが長く愛されてきた理由でしょうか。
今回の展覧会では絵本の原画を中心に、出版された本、自由に描かれた近作も展示されました。展示作品の数々は久保田さんのご活躍の歴史を物語っていました。
会場となった画廊シャノアールには、関係者や出版社、女子美同窓会、川西市の皆さんなど多くの観客がいらっしゃり、毎日お元気に会場へいらした久保田さんとのお話しで賑わいました。
■絵本の仕事につくまで
福岡県生まれの久保田さんは女子美術専門学校で日本画を学んだあと、東京に残って絵の勉強を続けるつもりでした。しかし、卒業当時は戦時中のため希望通りにはならず、いったん郷里に戻り、西日本新聞絵画部へ勤めることになりました。サザエさんで著名な長谷川町子さんと机を並べて働いたこともあったそうです。
戦時中は女性も働き手として多くは工場や農業に従事していましたが、久保田さんのように新聞社に勤められたことは、幸いだったとおっしゃっています。新聞社では原稿の写真のレタッチなど、細かい仕事が中心でしたが、得意の絵を生かし、夕刊や出版物の挿絵を手がけたこともありました。
終戦を迎えた頃の福岡は占領軍が入り、以前とは町の様子が変わってしまったと感じていた頃、久保田さんは同じ新聞社の方と結婚し、ご主人の転勤で東京へ行くことになりました。久しぶりの東京で久保田さんは絵の仕事を始めました。
しかし、その後またご主人の転職で大阪にほど近い兵庫県川西市へ転居されました。転居後は家事や育児のため絵をあきらめようと考えましたが、ご主人の失職により働くこととなり、関西での仕事を探し始めました。
関西での仕事は経験のない久保田さんでしたが、やはり絵の仕事をしたいと出版社を直接訪ね、絵を持ち込みました。まず最初にいったひかりのくにで絵を認めてもらい、仕事を始めました。そこから久保田さんは多くの絵本を手がけることになったのです。仕事は単行本から、幼児向け月刊雑誌、全集など多くを抱えていきました。
■子どもが最初に出会う本は正確なものでないといけない
仕事をしたかったという久保田さんは、絵の仕事を希望する人の多い中で、どうしたら仕事を得られるか考えたました。人と違うことを描かなければ…。そして思いついたのが、何でも描けるようにすること。
子どもの日常を考えると、その周囲には多くの人がいて、多くのものがある。そして限りない行動をしている。お話の主人公だけではなく、子どもの日常のように、その周辺にあるものすべてをきちんと描こうと考えたのです。そして、苦手なものも努力を重ね、何でも描ける画家といわれるようになりました。
日本の昔話をはじめ、ヨーロッパの名作を描くことも多かったため、そこに出てくる外国人の顔、服装、風景、家具調度、雑貨、時代背景などを丹念に調べました。特に時代考証に気を使い、間違いのないように心がけました。
そのお話が書かれた当初はある場所のある時代を想定して書かれたとしても、その絵本が何度も出版されると次には違った時代を想定されることがよくあったのです。
そのために、資料は重要になり、日本の書籍や新聞だけでなく、洋書やヨーロッパの人形なども手に入れ、綿密に調べる努力をしました。
「絵本は長く子どもの記憶に残っていくものです。子どもが最初に出会う本は正確に、間違いなく描かれていなければいけないと思います。」と語る久保田さんには、長く童画を描いてこられた誇りと強い意志を感じられました。
後年、ヨーロッパを訪ねる機会ができた久保田さんは、実際に絵本の現場に行くことができたそうです。ベルギーのフランダースへ行ったときは主人公の家や教会を訪ねました。「絵を描いたときに教会に飾られているルーベンスの絵の資料はあったのですが、絵の周辺の壁の様子は分からず考えた末、文字スペースに当ててしまったんです。」とにっこりされました。
「月刊誌を抱えていた頃は育児や家事もありましたが、時間ができると1日中何時からでも机の前に座って描きました。子どもが小さなときは預かって下さる方にお願いしたり、郷里から若い娘さんに手伝いに来てもらったりしました。また、一人で夜から早朝まで描くのが一番仕事がはかどりましたから、絵を描くのはいつも夜遅くからでした。年末年始やお盆休みがないこともよくありました。つらい時期もありましたが、本が出たり、月刊誌や全集の表紙になった時、増刷されて臨時収入が入った時は、とても嬉しかったですね。
思い出に残っているのは講談社の『あおいとり』です。新学期やクリスマス前に何度も増刷されました。締め切りに追われながらも、一生懸命に描きました。」
■親子3代女性画家
女子美術学校で日本画を学ばれた久保田さんでしたが、出版社から水彩を依頼され、初めて本格的に水彩で描きました。描いてみて気がついたのは、日本画と同じような技法で描けるということでした。日本画は絵の具を描ける状態にするのに手間がかかります。水彩絵の具はそこまでの準備がもうできているように感じました。
下絵を丁寧に描くことを学んでいたので、下絵の完成度とそのトレースのポイントとなる捉えどころも心得ていて、日本画のプロセスがそのまま仕事に活かせました。
「現代は絵本の描き方や作り方も変わってきました。今は締め切りに追われずに描いています。」と語る久保田さん。お嬢さんも、個展会場へ遊びにいらしていたお孫さんも絵を描いていらっしゃる、親子3代、女性画家が続く家系だそうです。
いつまでも一人の女性として、母として、作家として輝いている久保田あつこさん。これからもご活躍され、多くの人々にすてきな絵本の思い出を与え続けてくださることでしょう。 |