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up date 2005.11.18

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ライブラリでは、アートの様々な分野で第一線に立つ、ビッグな女子美の大先輩をご紹介いたします。

ライブラリ第7回
三岸節子さん(洋画家)―前編
−後編
 
ヴェロンのアトリエにて
ヴェロンのアトリエにて
   撮影/竹見良二氏
2005年、生誕100年を記念して全国で巡回展が開催されている三岸節子さん。
三岸節子さんは大正期に女子美に学んだのち、女性洋画家の先駆者としてご活躍され、文化功労者を受賞されるなどその業績は高く評価されています。

1924年(大正13年)女子美術学校 西洋画科選科卒業

年譜はこちらです>>>



1922年ころ、女子美術学校時代
1922年ころ、
女子美術学校時代
「自画像」 1925年
「自画像」 1925年
1925年、20歳。春陽会台3回展に女性としても初入選した『自画像』と
1925年、20歳。
春陽会台3回展に女性としても
初入選した『自画像』と

■ 出生から女子美入学まで

三岸(旧姓 吉田)節子さんは明治38年(1905)、吉田永三郎・菊の四女として愛知県中島郡起町字中島(現在の一宮市)に生まれました。生家は裕福な地主で、お父様は毛織物の製造を手がけました。節子さんには先天性股関節脱臼という障害があり、歩くときには体が大きく上下動したそうです。裕福な家に生まれた節子さんでしたが、祝い事などで家に親類縁者などが集る日には、世間体のために蔵の中でひとり過ごさねばならなかった辛い経験がありました。節子さんの負けん気の強さはこのころから身についたのかもしれません。

大正6年(1917)、名古屋淑徳高等女学校に入学し、文学に熱中する日々を送りました。卒業の前年、大恐慌のためお父様の織物工場も破産してしまいましたが、このことを聞いた節子さんは「一家の苦しみを何者かになつてとりかへそうと決意」 したといいます。女学校を卒業後、お母様は足の不自由な娘に身を立てる術を身につけさせようとし、お母様の父上と兄弟が医者だったこともあり医学の道に進ませようとしました。しかし女子医科専門学校を受験しましたが結果は不合格でした。その後、「油絵描き」になりたいと願い出ましたが、ご両親は聞き入れてくれませんでした。節子さんは食事を拒否するなど頑固にご両親に抵抗しました。お父様は日本画ならと譲歩しましたが、油絵を学びたいと譲りませんでした。油絵に惹かれた理由について後に次のように語っています。
「なぜわたくしが油絵を選んだか。それは私の生れた土地は今もなほふるめかしい封建的色彩の濃い処で、茶の湯の最も盛んな処、女といへば、琴、花、茶の湯の芸事で朝夕暮れて、気品高くお上品に振舞へとか、実に口やかましい、自由奔放な人間性の微塵もない、窮屈な、ひねくりまはしゆがめとほした息も出来ぬ世界である。(中略)いつも久しぶりで家に帰ると、野に出て大声で叫びたい衝動に駆られる。このやうなわたくしには油絵のあの粗さはうつてつけだと思った。そして油絵の中に何より生命の自由を少女ながらも読みとつてゐたのである。」

よき理解者であった長兄・章義さんがはじめに許し、ご両親を説得してくれました。節子さんは16歳の夏に上京、遠縁の紹介で岡田三郎助先生の指導を受けることとなりました。岡田三郎助先生(1869‐1939)は洋画家で、黒田清輝らとともに外光派の画家として活躍しました。明治30年(1897)、文部省の最初の美術留学生として渡欧し、ラファエル・コランに教えを受け、特に優美な婦人像において独自の様式を確立しました。東京美術学校をはじめ本郷洋画研究所、女子美術学校などで後進の指導にも取り組んだ人物であります。節子さんははじめ本郷絵画研究所、岡田先生の自宅に通い指導を受けましたが、翌年4月には先生の勧めで女子美術学校2学年に編入学しました。
女子美術学校が開校した明治33年(1900)は、女子英学塾(現在の津田塾大学)や東京女医学校(現在の東京女子医科大学)も開校した年でありましたが、いまだ女性が職業をもち、自活することを視野に入れた女子のため高等教育機関の例はわずかでした。美術の分野では、明治9年(1876)、わが国初の官立美術学校・工部美術学校が開校し、女子の入学が認められた例がありました。しかし工部美術学校廃校後、明治22年(1889)に開校された東京美術学校は女子の入学は認められなかったため、女子美術学校は明治・大正・戦前を通じて、ほとんど唯一の女性のための美術高等教育機関となりました。
節子さんの学んだ女子美術学校西洋画科では、大正5年(1916)より教師として岡田三郎助先生を迎え、より質の高い教育をめざし、節子さんをはじめ森田元子さんや深沢紅子さんなど多くの女性洋画家を輩出しました。

「室内」1939年
「室内」1939年
「二つの像」1959年
「二つの像」1959年

■ 結婚、そして画家としての出発

節子さんは女子美時代について「この反骨はなはだしい生意気な生徒にとって、退屈以外の何ものでもなかった」、「むしろ絵に学ぶことより、映画に熱中した」などと語っていますが、この時期は岡田先生のもとで基礎技術を培い、公募展や同人会展に出品し、実力を試すなど貴重な時を過ごされたのでしょう。彼女自身も「実に自由奔放に芸術の欲するところの養分を摂取した青春であつた」 と回想しています。
編入学したその年、1920年社第2回展に出品し、そこで同じく出品した三岸好太郎氏と知り合うことになりました。三岸好太郎氏(1903-1934)は北海道札幌に生まれ、札幌一中を卒業し、洋画家をめざして上京。さまざまな職に就きながら独学で絵画の勉強を続けました。大正12年(1923)、春陽会第1回展に〈檸檬持てる少女〉が入選、翌年の第2回展で〈兄及ビ彼ノ長女〉など4点が入選し、春陽会賞を首席で受賞。弱冠21歳で村山塊多、関根正二以来の天才現ると一躍注目を集めました。節子さんによれば、好太郎氏は「生まれながらの画家」であり、「蚕が糸をはくやうに自然に絵が生れた」 といっております。好太郎氏は初期のプリミティヴな作風、または岸田劉生の草土社様式を思わせる作風から、昭和4年(1929)頃には〈道化〉というモティーフを得て、寂寥感のある彼独特の世界を確立しました。1934年以降は〈海と射光〉などシュール・レアリスム風の作品を生み出しました。好太郎氏は次々に日本に移入される新しい西洋の様式に敏感に反応し、彼自身の様式をも変化させていきましたが、シュール・レアリスムの本格的移入に先だって描かれた作品は日本洋画史のその名を残すものであります。


節子さんにとって好太郎氏は画家の先輩あるいは友人の一人で、ともに写生にでかけたりしていました。二人の関係が深まったのは大正12年(1923)の関東大震災の頃からでした。当時節子さんは小石川白山下に学友とともに下宿していました。3年次の夏休みを早めに切り上げ、白山の下宿で二科展出品に備え、出品したものの、落選となり、意気消沈していました。その直後関東大震災が起こり、周囲は火事や暴動などで突如物騒になりました。下宿先主人の女性、その女中と2人の女学生だけで心細いところへ好太郎氏が勤め先から食料品をもち、訪ねてきました。好太郎氏は部屋の片付けを手伝い、用心棒として泊ってくれたりしました。好太郎氏は大森の自宅に帰る朝、節子さんを呼び、「非常の際、なんで金がいるかもしれぬ」 と懐中の有り金を全て渡し、愛の告白をしたといいます。女子美卒業が近づいた頃、友人と共に作品を見に彼の家を訪れました。この時好太郎氏はすでに春陽会賞を受賞し、注目を集める存在でありましたが、六畳一間に母、妹とともに住んでおり、その一室で生活と作品制作を行っていたのでした。節子さんはその貧しいせまい一室から素晴らしい独特な作品が生み出されることに感動を覚えました。節子さんの家は没落したといえどもお兄様は節子さんを女子美卒業後はフランス留学させようかというほど経済的には豊かでした。当時の節子さんは好太郎氏の生活ぶりをこれこそ真の芸術家の生活であると信じ、極貧を超越した制作態度に純粋な尊敬の念を抱いたといいます。好太郎氏とともに生きることを決意したのはこのような尊敬があったからでしょう。

節子さんは、卒業制作として30号の人物画を描き、首席で卒業し、その年の秋、好太郎氏と結婚しました。その時すでにお腹には長女・陽子さんを宿していました。翌年、子育てをしながらも春陽会第3回展に〈自画像〉など4点を出品しました。これが初入選を果たし、本格的に画壇にデビューすることとなりました。この〈自画像〉には、20歳にしてすでに妻となり、母となった自分の運命をしっかりと見据え、その上で画家として生きたいという強い思いが表れているように思われます。

その後、女性洋画家のための道を切り開こうと生涯にわたってさまざまな運動をしますが、この年には甲斐仁代さん、深沢紅子さんら女子美出身者とともに婦人洋画協会を結成しました。


「花 ヴェロンにて」1988年  
「花 ヴェロンにて」1988年
 

生誕100年記念 三岸節子展 □生誕100年を記念して「生誕100年記念 三岸節子展」が日本橋を皮切りに国内を巡回し、11月3日〜12月18日には三岸さんの故郷にある愛知・一宮市三岸節子記念美術館で開催されました。 


【参考文献】

三岸節子『花より花らしく』求龍堂 1977
三岸節子『黄色い手帖』 求龍堂 1983
三岸節子『美神の翼』 求龍堂1991
吉武輝子『炎の画家 三岸節子』 文芸春秋 1999
『三岸節子画集』 求龍堂 1980
『三岸節子画集 第2集』 求龍堂 1981
尾西市三岸節子記念美術館『開館記念 三岸節子展‐生きた・描いた・愛した‐図録』 1998
北海道立三岸好太郎美術館、平塚市美術館、福島県立美術館、
朝日新聞社文化企画局東京企画第1部『三岸好太郎と三岸節子展図録』 朝日新聞社 1992
『三岸節子収蔵作品集』 一宮市三岸節子記念美術館 2005


【主な作品収蔵先】

一宮市三岸節子記念美術館
名古屋市美術館
東京国立近代美術館
蘭島閣美術館
愛知県美術館
学校法人女子美術大学
個人蔵



【関連美術館、ギャラリー】

一宮市三岸節子記念美術館>>>
北海道立三岸好太郎美術館>>>
高輪画廊>>>


 
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