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1922年ころ、
女子美術学校時代
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「自画像」 1925年
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1925年、20歳。
春陽会台3回展に女性としても
初入選した『自画像』と
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■ 出生から女子美入学まで
三岸(旧姓 吉田)節子さんは明治38年(1905)、吉田永三郎・菊の四女として愛知県中島郡起町字中島(現在の一宮市)に生まれました。生家は裕福な地主で、お父様は毛織物の製造を手がけました。節子さんには先天性股関節脱臼という障害があり、歩くときには体が大きく上下動したそうです。裕福な家に生まれた節子さんでしたが、祝い事などで家に親類縁者などが集る日には、世間体のために蔵の中でひとり過ごさねばならなかった辛い経験がありました。節子さんの負けん気の強さはこのころから身についたのかもしれません。
大正6年(1917)、名古屋淑徳高等女学校に入学し、文学に熱中する日々を送りました。卒業の前年、大恐慌のためお父様の織物工場も破産してしまいましたが、このことを聞いた節子さんは「一家の苦しみを何者かになつてとりかへそうと決意」
したといいます。女学校を卒業後、お母様は足の不自由な娘に身を立てる術を身につけさせようとし、お母様の父上と兄弟が医者だったこともあり医学の道に進ませようとしました。しかし女子医科専門学校を受験しましたが結果は不合格でした。その後、「油絵描き」になりたいと願い出ましたが、ご両親は聞き入れてくれませんでした。節子さんは食事を拒否するなど頑固にご両親に抵抗しました。お父様は日本画ならと譲歩しましたが、油絵を学びたいと譲りませんでした。油絵に惹かれた理由について後に次のように語っています。
「なぜわたくしが油絵を選んだか。それは私の生れた土地は今もなほふるめかしい封建的色彩の濃い処で、茶の湯の最も盛んな処、女といへば、琴、花、茶の湯の芸事で朝夕暮れて、気品高くお上品に振舞へとか、実に口やかましい、自由奔放な人間性の微塵もない、窮屈な、ひねくりまはしゆがめとほした息も出来ぬ世界である。(中略)いつも久しぶりで家に帰ると、野に出て大声で叫びたい衝動に駆られる。このやうなわたくしには油絵のあの粗さはうつてつけだと思った。そして油絵の中に何より生命の自由を少女ながらも読みとつてゐたのである。」
よき理解者であった長兄・章義さんがはじめに許し、ご両親を説得してくれました。節子さんは16歳の夏に上京、遠縁の紹介で岡田三郎助先生の指導を受けることとなりました。岡田三郎助先生(1869‐1939)は洋画家で、黒田清輝らとともに外光派の画家として活躍しました。明治30年(1897)、文部省の最初の美術留学生として渡欧し、ラファエル・コランに教えを受け、特に優美な婦人像において独自の様式を確立しました。東京美術学校をはじめ本郷洋画研究所、女子美術学校などで後進の指導にも取り組んだ人物であります。節子さんははじめ本郷絵画研究所、岡田先生の自宅に通い指導を受けましたが、翌年4月には先生の勧めで女子美術学校2学年に編入学しました。
女子美術学校が開校した明治33年(1900)は、女子英学塾(現在の津田塾大学)や東京女医学校(現在の東京女子医科大学)も開校した年でありましたが、いまだ女性が職業をもち、自活することを視野に入れた女子のため高等教育機関の例はわずかでした。美術の分野では、明治9年(1876)、わが国初の官立美術学校・工部美術学校が開校し、女子の入学が認められた例がありました。しかし工部美術学校廃校後、明治22年(1889)に開校された東京美術学校は女子の入学は認められなかったため、女子美術学校は明治・大正・戦前を通じて、ほとんど唯一の女性のための美術高等教育機関となりました。
節子さんの学んだ女子美術学校西洋画科では、大正5年(1916)より教師として岡田三郎助先生を迎え、より質の高い教育をめざし、節子さんをはじめ森田元子さんや深沢紅子さんなど多くの女性洋画家を輩出しました。
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