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アケラカン 1954年 石膏
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ひしょう 1955年 白セメント
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1957年当時のちいさん
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とお 1956年 白セメント
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■何ごとにも争うことなく過ごした少女時代
須賀野チイさんは1909年佐賀県小城郡三日月村(現三日月町)に生まれました。
後の日記に「かつてわたしは学生の頃、ある日、いなかの家の庭に面した縁側に仰向けに目を閉じて寝ていた。陽の光を全身に感じ、家の中は人気もなく、庭のしゃくなげに群がる蜜蜂のうなりだけが聞こえ、ただ、わたしが、その時、その所において、そうしている自体、に対して、(精神的には、何一つ人間の欲求するものもなかった。絶望もなかった)そこは実に無抵抗の世界だったのだ。『幸せとはこんなものだな』とその時思った。」と、書かれています。須賀野さんは佐賀の美しい自然の中で、自由に何ごとにも争うことなく成長されたのです。
佐賀県立小城高等女学校に進まれた須賀野さんは当初、文学を志望していましたが、目を悪くされ本が読めなくなってしまいました。そのため、絵を描くことが好きだった須賀野さんは、小城高等女学校で東京の女子美術専門学校(現・女子美術大学)の存在を知り、卒業後は絵の道を志して女子美術専門学校の西洋画科に進むことを決めました。
須賀野さんは1927年に女子美術専門学校に入学され、本郷区菊坂の寮で女子美時代を過ごされました。西洋画科で油絵を学んでいましたが、佐賀の方言が強くて話すことを嫌い、友達は出来なかったそうです。在学同時は岡田三郎助先生に一心に学んだことが全てだったとおっしゃっています。
■彫刻への転向と苦悩の日々
1931年3月に女子美術専門学校を卒業された後、松竹映画会社宣伝部に入社されましたが、1944年からは創設後間もない山水中学、高等女学校(現・桐朋学園)教諭として美術を担当するようになりました。
ご自分の制作を純粋に貫かれていた須賀野さんはある大きな出来事に遭遇して絶望を感じたことから絵筆を折り、彫刻による表現に転向しようと決意されました。1949年、チイさんが40才のときでした。
方向が定まらないまま入った彫刻の世界でしたが、その奥に仄かに揺らぐ一筋の希望を見い出し、現在の創作に繋がっていくものへ導かれていったのは、須賀野さんが本来、真実を求める強いエネルギーの持ち主だったからではなかったでしょうか。第二の人生、ゼロからの出発とされた須賀野さんの心には、このころ大きな虚無感が広がり、死と対面する極限の精神状態を続ける厳しい時期を過ごされたといいます。
しかし、彫刻に転向した1949年に二科展彫刻部に初出品した作品「若人」、「少年2人」は初入選しました。この時の作品は須賀野さんの彫刻作品のなかでは数少ない具象的作品でした。
以降も連続出展され、1955年には「ひしょう」で特待賞受賞、1956年「とお(湖)」で会友推挙されています。作品はどちらもセメントで作られた抽象形態でした。
当時勤められていた山水中学、高等女学校はその後、桐朋学園となり、1952年には高校に音楽科を発足させました。須賀野さんは1954年桐朋学園音楽科二期生担任となり、桐朋学園に初めての美術クラブを設立しました。純粋で暖かい人間性をもった須賀野先生は、生徒だけでなく若い先生方の良き相談相手でもあったことは、お人柄を忍ばせるエピソードです。
また、芸術家としてのセンスと自由な精神を持ったチイさんは、ハリウッドの映画女優、グレタガルボとイメージを重ね合わせる人もいるほど、とてもモダンで神秘性を感じる美術の先生だったようです。
■アケラカンに生きる
生徒達に豊かな感性で優しく接し、担任としても尽力される中でも、須賀野さんは常に本来のご自分、真の芸術を見つめ、ご自分にはとても厳しい評価をし、試行錯誤されていました。そんな中で行き着いたのが「無感動になれば生き易い」(つまり、アッケラカンに生きる)と思うこと。
そんな思いを形体化した「アケラカン」を制作したのは1954年のことでした。「無感動になれば生き易いと思う。作品の形態は無抵抗な丸になった」。この作品は、二科展の会場に放置したまま、ついに引き取りに行かなかったそうです。しかし、アケラカンに生きようと思えば思うほど、苦しさをつのらせた須賀野さんは、芸術家としての生命力と表現を捨てることはできずにいたのでしょうか。その苦しさからの安らぎを求め作られた1955年の「ひしょう」は、次の年の二科展で特待賞を受賞しました。しかし、ご自分では逃避したゆえの作品と思っていたのです。
1956年に須賀野さんは桐朋学園音楽科学部長吉田秀和先生の引率のもと、音楽科高校3年生と北海道美幌峠へ旅行する機会を得ました。その時、阿寒湖の側に佇んでいると千古の水をたたえたふかい緑色の奥底から「人々の中に戻りなさい」という声が聞こえたような気がしました。「何故なのか?」この自問自答から、自己の存在を生き抜くことが、自分の作品であり得るのだという強い意志が確認出来、それまでの運命に転機を迎えられたのです。この時に受けたインスピレーションを制作した「とお(湖)」で、この年会友に推挙されました。
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