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受容III 1986年 ブロンズ
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帰ってきたアケラカン 1988年 石膏
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制作中のちいさん
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宇宙の嘆き 1993年 石膏
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愛・限りなく 1996年 石膏
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■無抵抗で自由なイメージ
1957年「美術批評」2月号では<13人の新人>の一人として、女子美の教授でいらした乗松巌氏が須賀野チイさんを紹介しました。この中で須賀野さんの作品について語られたことは、「初めの頃から最近までの彼女の作品の中に流れる一筋のものは、無抵抗のイメージが空無の中で廻転して生きてきたかのような形状である」ということでした。この時、須賀野さんは初めて自分が作品の中で作り上げた世界は、無抵抗で自由な、なににも束縛されない世界であったことに気付きました。そして自分が抵抗していた世界から、現在はその無抵抗の自由な自分に立ち戻っていることもはっきり感じ取っていました。須賀野さんの日記には「わたしの作品がはじめてわたしとピタリと一致した。」と書かれました。
この時に制作したのは「ある一つの世界」でした。『…何一つない広大無限の世界。でも、全てを含んでいる…。』須賀野さんの今までの悩みはふっきれ、一心に彫刻を探究されました。自己のなかの不純物を削るように、形体は線や面にも変わっていきました。木彫も手掛けています。「ある一つの世界」はその後もテーマとして何度も須賀野さんの作品に取り上げられています。
■彫刻家として専念する日々
1960年には桐朋学園を退職して、非常勤講師となり、彫刻家として専念されました。1967、1968年にはご子息の写真家塚原琢哉氏と銀座壱番館画廊で展覧会も行いました。
その後も真正面から愛や生きることを問い続け、創造する形体は球体へと戻っていきました。そして、1988年に再び制作した「帰ってきたアケラカン」は、1954年に制作した荒削りな「アケラカン」から34年の時を経て、須賀野さんがたどり着いた受容的な世界の具現化として蘇ったのです。形体は自然の外力に対してもっとも抵抗が少ない合理的形体の卵形に近く、慎ましくものの根源を問うような作品でした。
この時、須賀野さんは79歳になっておられました。
■愛と祈りのかたち
須賀野さんは、湾岸戦争をきっかけに1991年からはシリーズ作品「愛、憂愁の時」の制作をはじめ、現代社会への危機を感じ全ての人の救済を祈リました。宇宙や地球の嘆き、自然破壊の中の子どもたちを救いたいと、1992年には初の個展「須賀野チイ彫刻展『愛と祈りのかたち』」を、六本木ストライプハウス美術館で開催されました。また、1997年に起きた中学生の犯行にも心を痛め、「鎮魂の祈り」を制作しています。将来のあるお子たちの心身をどうしたら救えるのかという願いを展覧会に寄せ、作品に寄せて愛と祈りを贈り続けています。
個展は1995年、1998年にも精力的に続けられました。
2003年4月には須賀野さんは「須賀野チイ彫刻展 ―94歳の提言―」を開き、会期中に94歳の誕生日を迎えられました。須賀野さんの愛のメッセージは限り無く、ますます強くなります。
『物質と精神―智性と情緒のバランスが崩れた時、ストレスが生じ、精神と肉体がおかされる。現代の子ども、大人、ひいては世界、国、社会におこる現象を見たときこんな不幸が人間の世界にあっていいものだろうか?』
2003年には昭和15年より活躍している報道写真家として著明な女性、笹本恒子さんの写真集「昭和を彩る人々 私の宝石箱の中から100人」の中で、平成5年に撮影された制作中の写真とともに、激動の昭和を生き抜き立派な仕事をされた彫刻家として紹介されています。
また、相模原キャンパスの女子美アートミュージアムで開催された「岡田三郎助の頃女子美展『遥かな道程』」に出品され、新しい女子美にお姿を見せて下さいました。
94歳の秋には利き腕を骨折したにもかかわらず、逆の左腕で作品を制作し二科展に出品したという心強い話も伺い、その表現者としての姿勢には感動を憶えます。
2004年9月には静岡の女子美同窓生が主宰するギャラリーでも個展「95才の想い 幼いお子を守りたい 愛と祈りをこめて」を開かれ、2006年も展覧会を予定されているという須賀野さん。愛の世界を作る根源は美の心であるということを実践し、表現される姿に私たちは多くのことを感じずにはいられません。
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