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1960-1969
学生運動のエニルギーが燃焼した。
オリンピックに始まった
学生デモに参加
学生デモに参加
  60年安保ではじまり女子美も例外なく巻き込まれ、連日デモに参加する学生もいました。安保問題に限らず学生の学校生活に対する不満が根底にありました。
そんな時だからこそ「ウエストサイドストーリー」、「007シリーズ」の上映は若者の感性に訴え大ヒットしました。
1961年にはガガーリンが有人飛行に成功し、「地球は青かった」の言葉に代表される新しい宇宙時代に突入しました。1963年の宇宙中継の第一報がケネディー暗殺にはじまり、1964年の東京オリンピックではカラーテレビが普及しメディアの時代になり、亀倉雄策のデザインしたポスターやシンボルマークが広告界に新風を吹き込みました。
一方、公共事業として環状7号線・地下鉄・丸ノ内線・新幹線や高速道路も整備され、日本の高度経済成長期がはじまりました。


デザインが市民権を得た
1960年代は、女子美の図案科がデザイン科となったように「デザイン」という言葉が市民権を得た時代といえます。1960年に東京デザイン会議が開かれ、世界各国から著名なデザイナーが来日しました。講演・シンポジウム・展覧会が催され、学生達も参加して世界のデザイン界を垣間見る事ができました。日宣美がデザイナーの登龍門として学生達のあこがれでした。1969年には日本インダストリアルデザイン学会が開かれています。
1960年の国立西洋美術館での「20世紀フランス美術展」、「ミロのビーナス展」、「ピカソ展」、「ダリ展」、「シャガール展」、「ツタンカーメン展」と大規模な展覧会が開かれ、日本で世界の名作を鑑賞できました。
1967年には丸木俊(昭和8年洋画卒)が夫の丸木位里と共に「原爆の図・丸木美術館」を設立し、岡本太郎が大阪万博の「太陽の塔」を発表しました。


アイビールックでさっそうと
アイビールックでさっそうと
  若者向けの雑誌が発刊され「右手に平凡パンチ、左手に朝日ジャーナル」という言葉が生まれ、アイビールックが流行しました。
1966年ビートルズが来日。彼等に影響されて男子の長髪が目立ち、グループサウンズ全盛の時代でした。また越路吹雪の「サントワマミー」が大ヒット、大合唱しながら卒業制作に燃えた人達もいました。
豊かな時代となり、謝恩会では振袖姿が目立ちました。その一方で、60年代後半女性のスカートがどんどん短くなり遂にはおばあさんもミニスカートになりました。


女子美にもバリケードがあった
1960年は学生運動の波を被るスタートをきりました。学友会経営の売店・食堂を生協組織へ改組しようとする学友会の動きに対し、学校側はこれを認めず対立、他大学自治会の応援で学生ホールの占拠から大学校舎占拠へと展開しました。1963年4月両者の話し合いの結果、女子美術大学生協が発足しました。
激しい学生生活があった反面、真面目に課題をこなす人も多く、学内で8時過ぎまで制作をしていて「おじさん」に早く帰るよういわれ「もう少し!」とがんばって延長する姿が見られました。
「おじさん」と学生から呼ばれた用務員の高柳重一郎さんは、木造校舎時代にいろりのあった小使室を学生達に解放していつも暖かく見守ってくださいました。
また部活の資金集めに他の大学とダンスパーティーを企画して、ワンピースにハイヒールでおしゃれをして踊りました。
海外旅行自由化で松島道也先生・永井信一先生方の引率のヨーロッパ美術研修旅行がはじまり多くの学生が参加しました。


体育祭
体育祭
寮でのひととき
寮でのひととき
テキスタイルデザイン
テキスタイルデザイン
プレス機を囲んで
プレス機を囲んで
  不自由でもなぜか楽しい
学生数の増加に伴い地方からの学生のために1960年和田寮(定員122名)、1967年には高円寺寮(定員244名)が完成しました。収容できないときは、学校が民家を何軒か借りた「別寮」もありました。
60年代初めの頃は、桃園寮では1部屋に8人ほどが生活して、冬の暖房は、木炭を使った火鉢だけで、暖をとりました。セメント製の流しで洗濯板を使った洗濯は、懐かしい思い出です。


女子美音頭を覚えていますか
片岡球子先生(日本画)
永井信一先生の古美研に参加された片岡先生は、寺院の見学に行くと誰よりも早く、スケッチブックを開き、京都では学生達に混ざって舞妓さんを必死で描く姿は私達に強烈な印象となり思い出されます。
坂崎坦先生(西洋美術史・短期大学部長)
1960年頃「女子美音頭」を作りたいと熱心に考えていらして、授業中黒板に書いて推敲された事もありました。♪女子美は日本でただ一つ、ドンドン…。その音頭に振りを付けられたのが堀井千代鶴先生(体育・寮舎監)で、体育の時間に踊らされたクラスもあったはずです。


人生は短く、芸術は永し
1960年(昭和35)7月、海外研修中の乗松巌先生は60周年を機に、文化交流を望む元ギリシャ・アカデミー院長スピロス・メラス氏より「人生は短く、芸術は永し」の書を贈られ大理石に刻んで日本に持ち帰りました。現在杉並校舎校門脇に設置。8月、軽井沢寮開設。10月、創立60周年記念祝典が催され「女子美術大学略史」刊行。
1961年1月、創立60周年記念「近代百年を彩る日本女流画展」が日本橋高島屋で開催。
1962年4月、女子美術大学短期大学部を、女子美術短期大学と改称。1965年、2・3号館が次々完成。1966年4月、芸術学部の学科を再編。1967年、桃園寮廃止に伴ない、同寮を改造して短期大学別科が使用。高円寺寮2階(長坂ビル内)に女子美画廊が開設。1969年5月、三谷十糸子教授が芸術院賞受賞。6月、加藤成之学長逝去。第4代理事長に三井高陽先生就任。7月、三谷十糸子教授が学長事務取扱に就任。

     
人生は短く、芸術は永し
「人生は短く、芸術は永し」
  三谷十糸子先生の日本画授業風景
三谷十糸子先生の日本画授業風景

1960年の物価
 
大学初任給‥‥‥
ラーメン‥‥‥‥
とうふ‥‥‥‥‥
コーヒー‥‥‥‥
映 画‥‥‥‥‥
はがき‥‥‥‥‥
国鉄初乗り‥‥‥
都バス‥‥‥‥‥
パーマ‥‥‥‥‥
 
13,327円
45円
15円
60円
200円
5円
10円
15円
559円
同窓会の動き
.
佐藤志津校長のブロンズ像 1960年 8号館(南別館)完成、一部を同窓会が使用。60周年記念として母校に佐藤志津校長のブロンズ像を寄贈決定。制作を乗松巌教授に依頼。同窓会報『女子美術』11号発行。以後21号まで毎年発行。愛媛支部発足。
1961年 ブロンズ像が完成し贈呈。
1962年 茂木智子、同窓会会員より初めて大学評議員に就任。
同窓会入会金 1,000円、会費 2,000円
1963年 名簿刊行。旭川・大分支部発足。
1964年 茂木智子、同窓会会員より初めて大学理事に就任。阿部秀乃、大学評議員に就任。
1966年 65周年記念として佐藤志津校長ブロンズ像の台座・ミロのヴィーナス像と台座を寄贈。
1967年 同窓会ヨーロッパ・アートツアー (22日間 572,000円)。山陰支部発足。
1969年 加藤成之会長逝去。名簿刊行。三上英子が大学評議員に就任。
 
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