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「室内」1939年
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1954年、初めてのフランス旅行。
ルーブル美術館の前で。
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1971年、ヴェニスにて
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「アルカディアの赤い屋根」1989年
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「細い運河」1974年
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「エッフェル塔」 1985年
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「ブルゴーニュにて」1989年
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「さいたさいたさくらがさいた」1998年
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■夫との死別、孤独からの再出発
好太郎氏との結婚生活は、彼が旅行先で急逝するまでのわずか10年間でしかありませんでした。節子さんはその間、三児の母となり、病身の義母と義妹の世話をしながら、貧しい家計を切り盛りしました。その上、夫の女性遍歴に悩まされ、精神的に追いつめられたこともありましたが、そんな中でも時間をみつけては必死に制作を続け、春陽会や独立美術協会などに出品し続けました。好太郎氏が亡くなったのは自らの設計によるアトリエ完成直前という時でありました。節子さんは彼との10年について次のように回想しています。
「二十代の十年間、一人の女流画家として立つための、三岸との苦しい体験も非情な程度のものであった。しかし芸術の実体を教へられた。人の世の辛さもおぼろげながら知ったのである。かけがへのない貴重な十年であった」
彼の死後、彼女には3人の幼い子どもたちと莫大な借金が残されました心配して彼女のもとを訪ね、どこか会社に勤めたらどうかという友人の言葉に対し、彼女は画家として生きることをきっぱりと宣言し、模型まで作ったアトリエを完成させることが彼にとっての冥福であると信じ、無我夢中で絵を描き、個展を開き、東奔西走したのでした。この当時、男性画家であっても画商がついたのはわずかで、画家だけで生計を立てることは簡単でなく、ましてや女性にとってはきわめて困難でした。画壇は封建的な男だけの世界で、女性が団体の会員となる例は皆無でした。昭和14年(1934)、女性は会員になれないと内規のある独立美術協会を離脱し、新制作派会会員となりました。また画壇における女性の地位の確立をめざし、昭和21年(1946)、同志ともに無鑑査、自由出品の女流画家協会を発足させました。一人の画家として生きるため、当時の女性画家をとりまく情勢を持ち前の決断力と粘り強さとで切り開いていったのでした。
節子さんは20代後半から室内風景を多く描き、花瓶や果物の置かれたテーブル、椅子や窓など、妻であり、母であった彼女の日常過ごすことの多い室内空間を軽快な色彩で表現しました。これらにはマティスやボナールの影響が感じられます。戦時中もアトリエにこもって制作を続けた節子さんは、戦後まもない昭和20年(1945)9月、焼け野原の東京銀座で個展を開きました。それは芸術の力で人々に活力を与えたい、平和を回復した日本に自分の個展を捧げたいとの思いからでありました。昭和25年(1950)前後、鮮やかな色彩が溢れた作風から黒や茶など重厚な色彩を用い、モティーフの形を単純化して描く作風に至りましたが、これらにはブラックの影響が見受けられます。
画家として母として必死に制作し、生活する彼女に一つの安らぎともいえる出会いがありました。ヨーロッパ放浪から帰国し、洋画壇にデビューした菅野圭介氏との出会いでした。のちに彼と別居結婚をし、新しい結婚の形と世間の注目を浴びることになりましたが、6年の結婚生活は夫が音信不通になったことで解消となり、このことは週刊誌にスキャンダルという形で取り上げられ、またも世間の話題となってしまいました。その騒ぎがようやく静まった昭和29年(1954)、すでにフランスに私費留学していた息子・黄太郎氏のもとへ渡ることとなりました。
■渡仏、画家としての成熟期
節子さんはフランス国内だけでなくスペイン、イタリア各地の景色や美術館を見て回ったり、黄太郎氏とともに制作に取り組む日々を過ごし、翌年帰国しました。黄太郎氏の若い真直ぐな感性は彼女によい刺激になったのかもしれません。彼がフランスにおいて西洋絵画の限界、あるいは東洋文化の可能性を見出したことで、このことが彼女にも共通した問題として迫ってきたのではないでしょうか。帰国の作品にはインカの壺や埴輪がモティーフとして登場するようになり、これまで画面にマティスやブラックなど西洋絵画の雰囲気を漂わせていたのが、色彩においてもモティーフにおいてもより原始的で素朴な造形性を獲得し、西洋絵画の影響を超越したように思われます。
昭和39年(1964)、神奈川県大磯町の山荘に居を移しますが、昭和43年(1968)には、黄太郎氏一家とともに再渡仏、南仏カーニュに定住します。大磯に赴いたころから静物画から風景画に関心を移し、カーニュ、ヴェネチア、ブルゴーニュ各地において風景画制作に取り組みました。重厚で素朴な色彩を用い、ヨーロッパの土壁や煉瓦のある街並み、またその土地の乾いた空気感などを巧みに描き出しました。
一方で、「花」はもっとも重要なモティーフの一つでした。昭和52年(1977)に刊行された随筆集『花より花らしく』の中に花を描くことへの思いが綴られています。節子さんは日常から種をまき、水を与え、花を育てることに喜びを感じ、花のもつ美しさに魅せられていました。もともと美しい花でも絵にするということになると、あるがままに写しとるのでは、その生命を描き出すことはできない。花の実体をつかみ、「花よりいっそう花らしい」
、その生命力をそこに表さなくてはなりません。そのために感性にまかせて何十枚も色彩やコンポジションを試し、できたものを何度も破壊し、再び創造する。それによって画面上の花に生命力が与えられるのです。表面的に花を描くのではなく、花そのものの生きる力を描こうとしました。そのようにして描かれた花は、あるいは戦いの連続の中で精一杯輝いて生きた節子さん自身の自画像であるといえるかもしれません。
節子さんは好太郎氏の死後も画家の同志として彼の作品を愛し、収集し続けました。彼の郷里である札幌を訪れた際、北海道の自然の美しさに感動し、彼を育てたこの地に作品を返そうという思いが芽生えたといいます。その後、寄贈を決意、実現に向け奔走し、昭和42年(1967)、長年収集保存してきた好太郎氏の遺作220点を北海道に寄贈しました。北海道庁はこの作品群を基礎に北海道立美術館を開館し、さらに三岸好太郎美術館を開館しました。
一方で節子さんは平成2年(1991)、ワシントン女性芸術美術館で日本人女性洋画家として初めて展覧会を開催、平成3年(1994)には女性洋画家として初の文化功労者となり、国内外でその業績がたたえられるに至りました。そして、平成10年(1999)、故郷尾西市(現・一宮市)に三岸節子記念美術館が開館されました。その翌年、急性循環不全で94歳の生涯を閉じましたが、今もなお多くの作品の中で節子さんの存在の輝きは放ち続けられています。
次の言葉は芸術家をめざす若い女子たちへ向けたものです。この一文一文はまさに節子さんが実践してきたことそのものなのです。
「(女性は)才能も頭脳力も素質も感覚も力量もすべて男と同じ状態においたならば、決して劣つてはゐないのです。劣つてゐる、匹敵しがたい隘路がありとすれば、それはあなた方に努力が足りないからだけなのです。最善をつくさないからなのです。私は長い体験で絵画には女性の優美な感覚が際立って、本質的にもつてゐる優位を知っているのです。
男と同じに芸術と真向から真剣に取組むことです。男と同じに真向から生活と闘ふことです。男と同じに人間的苦悩に堪へてゆくことです。女性的感傷を放棄することです。現実を直視して己を絶対に甘やかしてはいけません。絵画は苦しみの道であります。キリストの受難と同じに、選ばれた殉教者の道であります。そして一歩一歩聖なる道に近づいてゆく、もつとも尊い人間記録なのです。」
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□生誕100年を記念して「生誕100年記念 三岸節子展」が日本橋を皮切りに国内を巡回し、11月3日〜12月18日には三岸さんの故郷にある愛知・一宮市三岸節子記念美術館で開催されています。
詳細は同窓生の展覧会をご覧下さい>>> |
□生誕100年限定特別企画 三岸節子の足跡を辿る旅へのいざない。
〜三岸芸術に魅かれて、フランス紀行〜 が企画されています。
詳細は本部からのお知らせをご覧下さい>>> |