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中村菜都子さんのパリ通信 vol.3 – 祈りの旅2018.04.20

 

 2015年の夏の終わり、淡い水色の空と濃い水色の海が交わる水平線が美しい五島列島へと旅をした。ふたつの青色の境目をじっと眺めていると、どちらが空でどちらが海か、どちらが上でどちらが下かわからなくなる。私たちは海から生まれ空へ帰って行くのか。万物について想いを巡らす。

 

 これまでまったく気にかけたことのない、祖母の生まれ育った地を訪れてみたくなり、2015年と渡仏直前の2017年に、祖母の故郷長崎五島列島と平戸を訪れた。それ以来、長崎の歴史やキリスト教文化、潜伏キリシタン、日本とヨーロッパの関係のはじまりについて知りたいと思うようになった。とりわけ、長崎から欧州へ航海をした天正遣欧少年使節や彼らに同行し活版印刷技術を学んだ日本人コンスタンチノ・ドラードについて。長崎から旅立った天正遣欧少年使節の軌跡を辿りながら、ポルトガル、スペイン、イタリアを巡り、長崎の歴史、キリスト教文化、版画、自分自身に、ゆっくりと出会うというのが今回のパリ滞在の大きな目的であった。渡仏前に作成した滞在計画では、天正遣欧少年使節が旅したヨーロッパの3つの国を全て周る予定でいたが、パリでの暮らしが半年を過ぎる頃には、私自身の時間や物事への向きあい方が少しずつ変化してきた。多くの情報を事前に集め、効率よく幾つもの名所を、点と点を飛ぶように移動する旅ではなく、点と点の間にある線を、適度な速度で歩き、偶然の出会いを楽しむ、自分にしかできない旅を求めるようになっていた。1つの国を丁寧に見てまわりたいと思い、今回は少年たちが初めて訪れたヨーロッパの地、ポルトガルへ行くことにした。

 

 日本からみるとポルトガルという国は、日本に西洋文化をもたらした歴史的に大変重要な国である。1543年、種子島にポルトガル商人が漂流し鉄砲を伝来したのが日本人にとって最初の欧州との出会いである。しかしながら、ポルトガルからみれば日本は、大航海時代に訪れた、アフリカ、アジア、アメリカの数ある国のひとつでしかないのだということをパリで暮らすうちに感じることになった。日本に造詣の深いパリで暮らすヨーロッパ人に、私の研究テーマを伝えても、日本とポルトガルが歴史的にこれほどに密接な関係にあったとは知らなかったと言われることがほとんどだった。私たち日本人なら誰もが知っている、ナバラ国の宣教師、パリ大学で哲学を学んだフランシスコ・ザビエルについて知る人も皆無だった。パリには彼の名を持つ地下鉄の駅、聖フランシスコ・ザビエル駅や聖フランシスコ・ザビエル教会もあり、また、モンマルトルにはフランシスコ・ザビエルやイグナチオ・デ・ロヨラがイエズス会発足の誓いを立てた、聖ドニ殉教・聖イグナチオ・ロヨラ記念地下聖堂などもあるというのに。

 

 正月が明ける少し前、ポルトガルに対する片想いのような気持ちをかこちながら、国際芸術都市、シテ・デ・ザールの正面にあるバス停から、オルリー空港へと旅の一歩を踏み出した。1582年に長崎港を出発した天正遣欧少年使節は2年半の歳月をかけ命からがらリスボンに辿りついたというのに、私はパリから飛行機でわずか2時間半、リスボンへ到着した。ほんの436年の間に世界はずいぶんと小さくなってしまったものだ。天正遣欧少年使節はリスボンからシントラ、バターリャ、コインブラ、エヴォラ、ヴィラ・ヴィソーザを巡り、スペイン、イタリアへと向かった。私はこの中から、4つの街を訪れることにした。リスボン、シントラ、エヴォラ、そしてヴィラ・ヴィソーザ。

 

 灰色の屋根と乳白色の壁、無彩色のパリの風景から一転し、リスボンの風景はオレンジ、イエロー、ピンクと暖かい有彩色が明るい音楽を奏でているような街並だった。イベリア半島にいるのだということをはっきりと認識させられる。ユーラシア大陸の最西端にある小さなポルトガルという国は、フェニキア人、ギリシャ人、イベリア人、ローマ人、ゲルマン人、スェヴィ人、西ゴート人など様々な民族の侵入を経て、ギリシャ、ローマ、イスラム、キリスト教文化が層のように重なった土地である。ポルトガル文化の代表とも言える美しいタイル、アズレージョの歴史を観ると、ペルシャ人から技術を学んだムーア人(北西アフリカのイスラム教徒)がスペインを経由しポルトガルへ持ち込んだと言われている。ムーア人は空いた空間に恐怖を覚えることから壁をアズレージョで覆い隠すという伝統が生まれたのだそうだ。15世紀から現在に至るまで、ルネッサンス期のマニエリスム、ギリシャ神話、寓話、インドのキャラコや更紗の文様、ブラジル様式、アール・ヌーボ、アール・デコとアズレージョは時代に合わせ異なる様式や美術運動の影響を受けながら変化を遂げている。それは西の果てのヨーロッパの玄関口、ポルトガルの多様な文化を柔軟に取り入れる気質を表しているかのようだ。400年以上も昔、年端もいかない十代の男子たちがこの地に着いた時、いったい何を想ったのだろうか。私が初めてヨーロッパの地を踏んだのは二十歳の時、イタリアのミラノだった。到着初日、日が沈んだ後の街は暗闇の中にあり、建物や景色を観ることはできなかったけれど、日本とは異なる橙色の街灯のあかり、パトカーのサイレンの音を今でもはっきりと覚えている。彼らもきっと日本にはない、波の音、潮の香り、光の放つ色彩を感じたことだろう。

 

 翌朝、ゆっくりと起床し、近所のカフェでコーヒーとポルトガル名物エッグタルト、ナタを頬張ったあと、リスボンの史跡めぐりをはじめた。1755年のリスボン地震で倒壊した建物の内部から美しい青空を眺めるカルモ修道院、天正遣欧少年使節が宿泊した、バロック様式、ロココ様式、マヌエル様式が混在する豪華絢爛なサン・ロケ教会、薔薇色の花崗岩の内装が美しいサン・ドミンゴ教会、中世ロマネスクの佇まいを残した市内で最も古いリスボン大聖堂、ポルトガルの守護聖人、聖アントニオを祭るサント・アントニオ・デ・リシュボア教会、紀元前2世紀から様々な民族の来襲からこの街を守ってきた、サン・ジュルジュ城。翌日には、マヌエル様式が美しいジェロニモス修道院、ベレンの塔、発見のモニュメントを見学し、さらにシントラへと旅をすすめた。天正遣欧少年使節が訪れた中世ポルトガル王家のシントラ宮殿、ドイツの名城ノイシュヴァンシュタイン城を建てたルードヴィッヒ2世の従兄、フェルナンド2世が建てた奇想天外なペーナ宮殿、8〜9世紀にムーア人により建造されたムーア城を見てまわった。城から城を行くのに、森の中の小道、ランパ・デ・ペーナ(ペーナの灯り)を1時間ほど歩いたことは、蒼蒼と茂る緑の中で森林浴を楽しみ、ポルトガルの自然に触れる貴重な時間となった。小道の途中、日本椿が自生しているのを発見し、長崎五島列島との不思議なご縁に想いを馳せる。リスボンとシントラに5日ほど滞在したあと、いよいよリスボンから東へ130kmにあるエヴォラとヴィラ・ヴィソーザへと向かった。

 

 エヴォラの町外れにあるバスターミナルからエヴォラ市街地へ行く道すがら、大きな水道橋が来訪者を迎えてくれる。15世紀後半から16世紀前半にかけて水不足が深刻であったこの地域のため、ジョアン2世が建設したのだそうだ。水道橋を横目に、城壁の中へ入ると小さく瀟洒な町が現れた。静かで綺麗に整えられた町並み、商店の佇まい、通りを歩く人々の気品。とても感じの良い町だと感じた。なぜこのように感じたのかは歴史を調べると明らかだった。ローマ帝国時代からアレンテージョ地方の中心地として栄えたエヴォラ。月の女神ディアナに捧げる、ローマ初代皇帝アウグストゥスを祭る神殿の一部が残っている。ルネッサンス時代にはイエズス会が設立したエヴォラ大学がおかれ学芸の都市として栄えた。エヴォラ宮殿はマヌエル1世の邸宅だった。エヴォラ大聖堂の天国をあらわしたかのような中庭で心がふと軽くなった。オレンジの木と緑の芝、しとしと降り続ける雨と鐘の音。伊東マンショと千々石ミゲルのオルガンの音色が聞こえてきそうだ。隙間のない豪華絢爛なマヌエル様式やバロック様式より、パリで見慣れた静謐なゴシック様式のこの大聖堂に少し安心したのかもしれない。どれほどの時間がたったのか、しばらくの間その美しい天国の中庭を眺めていた。コルクの木々やバラ色の花崗岩の砕石所が点在する、タクシーで50分の道のりを行くと、この旅最後の目的地、緑の生い茂る谷と称えられる、ヴィラ・ヴィソーザへ到着した。エヴォラから日帰りの旅を予定していたのではやばやと街を散策し、天正遣欧少年使節が4日間を過ごしたブラガンサ家の夏の離宮、ヴィラ・ヴィソーザ城とその博物館を訪れた。この城はかつて「新しいルネッサンススタイルの展示場のごとく、宮殿、公園、教会、修道院、要塞は個々ではなく全体で一つのものとなるよう考えたうえで造られている」と語られたことがある。

 

 1583年から1630年までブラガンサ公の地位にあったテオドジオ2世は、芸術を愛し、芸術家を庇護する真の「マニエリストのプリンス」として町をよみがえらせ、音楽、文学、人文科学の中心として町を仕立て上げた。宮殿を始めとする様々な建築やガラス工場、製紙工場の建設、さらに宮廷音楽の発展や公爵家狩猟地の開発といった幅広い分野に投資をし、幾人ものヒューマニスト、思想家、科学者を惹き付け、人々の集う極めて重要な場とする条件を整えた。日本人一行は歓喜のうちに迎えられ、あたたかな歓迎を受けた。マヌエル1世の孫にして当主公爵の母君、カタリーナ妃は、遥か遠き国より辿り着いた少年たちを実の息子のごとく慈悲深く受け入れた。彼らは、食事会や祝宴に何度も招待され、狩猟地や武器庫を見学し、ミサに参列した。また、少年たちは、日本の伝統装束を紹介し、また西洋楽器を披露したことで大変な評判を呼び賞賛された。同世代のブラガンサ公爵テオドジオ2世とその母君カタリーナ妃と共に過ごした4日間は、彼らにとって旅の疲れを癒す束の間の心温まる文化交流となったに違いない。(戦国の少年外交団秘話、ティアゴ・サルゲイロ著より一部引用)

 

 天正遣欧少年使節が観たポルトガルを旅する中で私が感じたこと。それは、幾多の民族に侵入され宗教的、文化的に変化せざるを得なかったポルトガルと大航海時代にアフリカ、アジア、アメリカへ航路を向け様々な国々と積極的に交流してきたポルトガルの二面性のある歴史を知ることで、この国の自由な生き方を求める柔軟かつ気骨ある精神を感じることができたこと、鎖国以前のわずか100年の間に日本がポルトガルから西欧の文化、知識、技術を学んだのだということを知ることができたこと。さらには改めてヨーロッパから日本を眺めることで日本の過去、現在、未来について考えるきっかけを与えられたこと。この旅で私が見聞きしたことを声高に主張し、直接的に版画作品として表現するではなく、この自分にしかできない旅の中で体験したことが、いつの日か静かに内包されるような作品を制作することができたらと思う。空と海、東と西が交差するこのポルトガルという国へまたいつか訪れることができたらと願いながら。

 

 

 

青空を仰ぐカルモ修道院

 

 

 

トラムのあるリスボンの街並み

 

 

 

薔薇色の花崗岩が美しいサン・ドミンゴ教会

 

 

 

サン・ジョルジュ城からの眺め

 

 

 

マヌエル様式が美しいジェロニモス修道院

 

 

 

テージョ川の貴婦人ベレンの塔

 

 

 

壁を覆い尽くすアズレージョ

 

 

 

ヴィラ・ヴィソーザ公爵宮殿とジョアン4世騎士像

 

 

< 中村菜都子さんのパリ通信 vol.4 – パリの向こうへ

 

 

 

 

中村菜都子

 

1974年生まれ

 

1995年女子美術短期大学造形科生活デザイン専攻 卒業

 

2005年ロンドン芸術大学ロンドン・カレッジ・オブ・コミュニケーション 卒業

 

100周年記念大村文子基金 平成29年度 第18回「女子美パリ賞」受賞

 

祖母の故郷、長崎を訪れたことをきっかけに、長崎の潜伏クリスチャンの文化に興味を持つようになる。彼らの数奇な運命を辿りながら、自分自身のルーツを探る旅をしている。

作家、辻仁成氏が編集長を務める「人生をデザインする」webマガジンdesign storiesにも寄稿させて頂いています。


Official website https://www.natsukonakamura.com/

 

 

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